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わたしの中には3人いる 虐待経験と幸せについて

23歳の春。
わたしの中に、3人のわたしを、確かに感じ取った。

1人は、無邪気で甘えん坊の男の子である。
陽気でおちゃらけている。
人懐っこくて、好奇心旺盛。
感情豊かで、とても甘えん坊である。
結構怖がりだが、相当勇敢で、とてもタフネス。

1人は、とっても頼れる1人の優しい男である。
どんな困難があっても、前向きな姿勢を崩さない。
必ず何か解決策があると信じているから、そうなる。
相手に復讐をしないと心に誓っている。
慈悲深い。

1人は、無心の者である。
感情がなく、相手に合わせる。
いつも、にへら笑いをしている。
恐怖に簡単に飲み込まれ、思考が停止してしまう。
この人格は、誰にでも迎合するからいろんな顔がある。
相手に合わせてどんな風にもなる。
とんでもなく同情したかと思えば、人を馬鹿にする。

最初の1人は、わたしの最初の人格であろう。
この人格はたまにしか現れないが、とても人気者である。
人が好きで、自然が好きである。
お酒を飲むと大抵この人格が現れる。
体を動かしたり、なにかに集中しているとき、テンションがとても高いとき、大好きなものと相対しているときも、この人格が現れる。

二つ目の1人は、おそらく4歳か、5歳ごろに発現したと思われる。
母が離婚した。母はとても若く、また弱かった。
父は別れ際に母をよろしく頼むとか、そんなようなことを言った。そのときに誕生した人格である。
父に頼まれたから、ではない。
むしろ父への軽蔑である。
何だこいつは、情けない。俺が守る!俺はやる!
そんな気持ちであった。

三つ目の1人は、小学6年生になったころに発現したと思われる。
これには少しわけがある。

小学校3、4年生ごろに虐待を自らでっちあげ、児童相談所に引き取られた。
でっちあげたといったが、そこに確かに虐待はあった。
しかし相手の男は狡猾なやつで、アザが残らぬようお腹だけを狙っていた。
自主学習を強要させられ、何でも1番になるように教え込まれた。怠けていたら腹を蹴られた。最初は優しかったように思うが、だんだんと変わっていった。
母もその男も厳しかった。嫌だと抵抗しても無駄。自分のドアをガムテープでぐるぐる巻きにして閉じこもったこともあった。
家から出されたことも何度もあった。ある時は、そのまま5キロくらい遠い祖母の家に、勘を頼りに助けを求めた。夜、小学2年生くらいの子が、見たことのある道を頼りに助けを求めた。
もちろん我慢していたし、悪いこともしていたのだろう。
しかしながら、こんな理不尽な扱いは不当だと、子供ながらに本気で思っていた。
ある日、事態は大事になった。
わたしは渡さなければならない書類を2度か3度親に出さないでいた為、「必ず明日持ってきなさい」と先生に言われた。
もうすでに出し損ねていて、怒られるのが嫌で出せずにいた。ーその頃はなぜか注意散漫で、学校にも家にも忘れ物が酷かったー
きっと絶対に出さなくてはいけない書類だったのだろう。これは、必ず怒られる。しかも相当に怒られる。そう思うともう家に帰りたくなかった。家に帰りたくないことなんて幾度もあったけど、これは本当に帰れないと思った。また殴られる。そう思った。
だから、自分の腕をチュウチュウと吸って自分でアザを作り、それを見せた。つい3日前とかに発見した技だった。
罪悪感はものすごかった。しかしそれと同じくらい、家に帰りたくなかった。
どうせすぐにバレると思っていたが、ことはすぐに大きくなった。
その日のうちに児童相談所の人が来て、事情を聞いてきた。わたしは腕のアザの嘘だけは隠して、家の事情をそのまま話した。どうせすぐに帰されると思った。
だけど、それから約半年くらい、児童相談所に引き取られた。
母は、「すぐに連れて帰るからね。待っててね。」と言っていたが、何とも複雑な気持ちであった。
確かに母からの虐待はなかったように思われるが、なぜ止めてくれないのか、敵なのか味方なのか、さっぱりわからない。
だけど、やっぱりお母さんは嫌いになれないし、嫌うことができない。そう最初の人格は言う。
お母さんも大変なんだ。2人目の人格が言う。
そんな複雑な気持ちの中で、帰りたくないな。でも、ここにも居たくない。これが本音であった。

そんなこんなで、帰ることになった。おそらく児童相談所側が返してもいいと判断したのだと思う。
わたしは特に何も希望を出していなかったから、なすがままであった。
久しぶりに会うのは母ですら怖かった。しかし意外にも優しい口調であった。
熊谷にある、るーぱんというローカルチェーンに行ったような気がする。わからない。これから先のことはあまり覚えていない。
大変だったよね、的なことから始まり、何か喋っていた。その流れで、結婚しようと思うだか、一緒になろうと思うだか、何とか言われた気がする。
そうだ、思い出した。その男と結婚して夫側の家に住むという条件を飲むことで、自分を返してもらったと言っていた。
わたしは、なんというか、何も言えなかった。し、何も思わなかった。
良い?大丈夫?と言われて、微かに頷いたように思う。
わたしは、あきれていたし、諦めていたんだと思う。
なぜ?いやだ!と言う気持ちを、自分が気づく前に押さえ込んだ。だから、何も感じなかった。
それから、再婚した相手の実家に引っ越し、転校もした。
新しい学校では、初日から癇癪を起こした。
それから、時折癇癪を起こしていたと思う。
教室中の机を蹴り倒したこともあった。
再婚相手の母、わたしから言えば祖母だが、そいつがまた嫌な感じのやつだった。でも、正直覚えていない。
そいつがどんな言葉をわたしに投げかけたか一言も覚えていない。
それでも、少しずつ友達はできた。初めて友達ができた。前の学校では出来なかった。
学校が楽しかった。夏休みが嫌いだった。明日から夏休みかーと思うと、好きな子がいたこともあってか、憂鬱になった。
その時期も本当に地獄だった。家に帰りたくないし、家にいても、いつあいつが帰ってくるかわからない。テレビもリラックスして居間で見ることはできないし、ゲームもやっちゃいけない。母方の祖母に内緒でゲームを買ってもらったけど、1時間までだった。それはまあよかったけど。
とにかく、家にいるときは緊張していた。2階の階段を上がってすぐの部屋に住んでいたけど、足音が怖かった。母はなぜか居なかった。
ある日、久々に母方の祖母と出掛けていた。帰りたくないなーと思っていた。本当に帰りたくない。夕方になった。あー帰らなくちゃいけない、そんなときだった。
祖母が携帯で電話をしていた。今日は泊まっていこうか、と言われた。とんでもなく嬉しかった。なんと、母と再婚相手が喧嘩をしたらしい。何でも良いけど、今日帰らなくて良いのは最高だと思った。そしたら、相当な喧嘩をしたみたいで、もう帰らなくていいってことになりそう?みたいな雰囲気だった。
わたしは、期待しすぎると辛いからあまり喜ばないようにしていたけど、内心はものすごく嬉しかった。
幸運なことに、その日から、わたしは地獄の日々に戻ることはなかった。

もう少しで、三つ目の1人が発現した理由を述べられると思う。
地獄から解放され、新しい家に引っ越した。
母と2人きりの生活になった。
母に対しては、もう母とは、あまり思っていなかったように思う。きっと心は深く傷ついていたが、二人目の人格が母を守るようにと強く言っていたように思う。一人目の人格も、母が大好きであったから、嫌われたくなかった。
だから、母に対する怒りは、いつも、全て抑圧された。
引っ越してからのある日、母にとんでもなく腹が立った。何でもないことであったと思う。洗い物をしろと言われた、それだけ。
だけど、とんでもなく腹が立っていた。
でも、それを母にぶつけるわけにもいかず、洗い物をした。洗い物をしているうちに、また怒りが込み上げてきた。小学生5年生くらいである。
そして、自分の怒りを抑えるように、両手で茶碗を押さえ込んだ。シンクに全体重をかけて押さえ込んだ茶碗は、パリンと割れた。破片は、右手首にしっかりと刺さった。右手の感覚は無くなった。神経まで切断してしまった。
これほどに、わたしの精神状態は良くなかった。
このときも、学校では癇癪を起こしていた。
せっかく出来た仲のいい友達とも、ゲームで負けたくらいで激怒してしまい、それから無視に遭ってしまった。
彼らは学校の中心的な奴らだったので、その無視は全員に広がった。イジメにあったのである。
最初は、自分の友達との喧嘩があっただけなのに、周りまで同じことをするのはおかしい、と思って全く気にしていなかった。むしろ闘ってやる、謝ってなんてやるもんか、と思っていた。
しかしながら、学校に行っても誰とも喋れない、サッカー友達だったのでサッカーの習い事でも孤立、流石にキツかった。
辛い日々のなかで、友達と遊ぶのが唯一の楽しみだった。でも、その友達とも上手くいかない。今思えばそんな精神状態だったのは仕方がないと思うけれど、その当時は自分の性格を呪った。
やっぱり仲良くしたいな、と母に相談した。サッカーの試合の後の、車の中だった。それならあなたが変わるしかない、と母は言った。
小学生1年生から、約6年間の辛い日々の叫びを全て抑え込まれた。イライラや破壊衝動、癇癪として滲み出されていたわたしの叫びは、性格の悪いわたしと言う形で無惨にも抑え込まれた。わたしはわたしを殺して、自分の理想の人格を作ることに決めた。自分の感情を抑え込んで、理想の自分になることで、また仲良くなろうと思った。
この時に発現したのが、三つ目の人格、無心の者である。
もちろん、人を傷つけたり、物を壊すことは良くない。しかし、それには理由があるのである。
誰もやりたくてやるわけじゃない。体が動いてしまう。それはわたしの心の叫びであったのだと思う。辛い日々に耐えに耐え、母には感情をぶつけられず、1人で闘ってきた。これで、至って普通のお利口さんである方がクレイジーである。
わたしに自分の辛さをぶつけた彼らも、きっと辛かったんだと思う。それを彼らは我慢してきた。だから、弱い存在である私にそれをぶちまけた。

わたしは、辛かったんだと思う。
甘えたかったんだと思う。
甘やかされたかったんだと思う。
そう。
辛かったし、甘えたかったし、甘やかされたかった。
母を守るのではなくて、母に守られたかった。
母じゃなくても、誰かに助けて欲しかった。
辛くて自分の気持ちをコントロールできない時、どうすればいいか教えて欲しかった。

でも、どれもこれも仕方がなかった。
母は若かった、弱かった。
それなのに、母には頼れる人がいなかった。
また、人に頼れるほど精神が成熟していなかった。

わたしを殴ったあの男も、本当に可哀想な男である。
わたしが受けた厳しい教育は、彼自身が受けたものであったのだと思う。もしかしたら、わたし以上だったのかもしれない。
実の父も、可哀想な男である。わたしの祖父にあたる彼の父が亡くなっても、自分は父に認められなかったと言っていた。十何年ぶりに会った息子に、そう言ってしまうような男である。
その一年後には傷害事件を起こして逮捕されている。
しかしできないことをできないと言って離婚したことは素晴らしい。
母は、最善を尽くしたのだと思う。
元々病弱で、心臓病を患い、物心ついた頃から病院生活。薬漬け、点滴漬けの日々。
ある日奇跡の回復を見せたが、特殊な幼少期を過ごした彼女は学校では馴染めなかった。
彼女の母も若かった。厳しい躾もあったそうだ。
若い男と再婚した。
母はよく祖母を嫌っていた。
家族でも居場所がなく、高校では荒れていたらしい。
そんな中で、わたしを身籠った。

誰が悪いとかそういうことではない。
そう本当に思う。
わたしの周りの登場人物は、みんな辛い。
しかし、誰かが幸せにならなくては、誰も浮かばれない、そう私は思うのである。
誰かを恨んだり、何かに依存したりすることによって、自分の辛さを無視してしまっては、また同じことを繰り返すだけ。
だから、名誉も、お金も、ドラッグも、意味がない。
虚しさが襲ってくるだけである。
辛さは、認めてあげないと、消えない。
我慢しても、いつか出てくる。彼らのように。
だから、わたしはこうして全て出した。
言葉にできるほどに、わたしはわたしの辛さを認められた。

でも、こうしてわたしが自分自身の辛さを認められて、今幸せを感じ、穏やかな日々を過ごせているのも、本当に運だと思う。
もちろん、わたしは精一杯やってきた。沢山本も読んだ。沢山考えた。
でも、わたしはある女性に出会わなければここまで幸せになることはできなかった。
それがなければ、今ももっと辛いところに居たと思う。
生まれてくるところも運であるが、救われるかどうかもまた運である。
人生、本当に不平等だと思う。
だから、自分の人生を無視して、社会的な基準だけで自分を見てはいけない。
あなたはどこからきて、今どこにいて、どこにいくのか。
自分の人生の最善を尽くしていくしかないし、それが幸せだと思う。


わたしは、沢山の人に救われましたが、特に、Nさんと、岡本太郎と、加藤諦三にお礼を言いたい。
また、産みたいという気持ちで産んでくれた母にも感謝をしたい。未熟な母だったかもしれないが、それこそが、ここまで走れた、わたしの原動力であったように思う。

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