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人に認められるということ

人に認められるということって?

それは、価値がある、ということかもしれない。
価値はお金や名声に換算できるかもしれない。
逆に、人目につかないものは、価値が無いのかもしれない。
本質的に無いわけでは無くて、そこに価値あるものはあっても、価値は生まれない。
誰かに観測されて、初めて価値は意味をなす。
のかしら。

商品は商品でしか無い

違う、全くもって違う。
何もかも、なんでも無い。
商品としての価値は、商品としての価値にすぎない。
だから、大衆に認められているから、資産価値があるから、何かすごいものがあるはずだという考えは、その時点で破綻する。
このことについて、詳細に書いてみる。

空虚の先に

人に認めらたいが為に何かを始めたり、作ったり、行動するかもしれない。
それは、空虚に向かっていると、私は思う。
何かいいものを作りたい。何か自分のうちにあるものを、外に出したい。そこまではいい。
でもそれを、人に認められることで価値を見出そうとしだすと、その先にあるのは商品として消費されることだけだ。
商品は流行に流される。そのもの自体の価値なんて、商品としての価値にはさほど影響を及ぼさない。
あなたの生み出したものを、本当の意味で知ることなど、ほとんどの人はできやしない。
ゴッホもピカソも私は、どんな人間なのかわからない。あなたはどうだろう。世の中的に、素晴らしいと言われているもの、多額で取引されるもので、心から素晴らしいと言えるものが果たしてあるだろうか。
正直、私にとって、彼らの絵は、ただの絵でしか無い。
そこに本当の意味で私にとっての価値が生まれる為には、ありえないほどの情熱と、それが自分から生み出されるための自分自身が必要だ。要は、全くの運、私から情熱が生み出される準備が整っているかどうか、運命とも言える。
だから、ゴッホもピカソも知識として蓄えようとはできるけれど、心から彼らを探究しようとすることはできない。情熱は作為的にはありえない。

心から探究する情熱がなくて、その人の何を知ることができるのか。
知りたいと切に願う愛する相手のことすら、満足に理解できない私たちが、ただの誰かの解説を読んだだけで、その人間の何を理解できようか。

あなたにとって価値のあるものは、あなたの中にしか無い。
そしてそれは、環境に左右されるものじゃ無い。自分が本当に素晴らしいのだと思えなければ、逆に自分が本当に素晴らしいと思えるならば、それは素晴らしい。

この資本主義世界で

一方で、商品としての価値は、明確にある。
それは周りが意見してくれる。どれだけの人に認められ、賞賛され、どれだけの金額で取引されるかで、価値は測ることができる。
それは、あくまで商品としての価値でしか無いことを、忘れてはいけない。そこになにか、本当の価値だとか、本当の理解みたいなものを求めても、そこには何も無い。周りの意見なんて蹴飛ばしてしまえ。

周りの意見なんて蹴飛ばしてしまえ。この言葉は一見横暴に見えるけれど、とてもとても考え抜かれた言葉だと思う。
周りに消費されるな。そして、気軽に情熱を燃やすんだ。
私は、私と私が愛するすべての人に対してそう思う。

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