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江國香織「とるにたらないものもの」(読書会開催時の解説のようなもの)

 江國香織の本「とるにたらないものもの」を課題書とする読書会を開催するにあたって、もしも読書会開始時に話す隙があるようであったらさらっと話しておこうか、と思っていたものを、今適当に実際に話したつもりで書き起こしてみた文章。

 それで江國香織さんを課題書にしようとした時、彼女は村上春樹と双璧を成す求心性をもった作家ですし、最初期から現在――一番新しいものまでは私はチェックをしていないのですが――に至るまで、傑作、すくなくとも都度都度、自らのキャリアのなかでのベストを尽くし続けてきた性質の作家で、そうするとどの作品を選んだものか、小説だととてもむずかしいわけですね、「きらきらひかる」なのか「落下する夕方」なのか「流しの下の骨」なのか「抱擁、あるいはライスには塩を」なのか、……いずれも関係性、失恋、家族、百年のスパンをもったある種の彼女なりの総合小説と、それぞれにテーマもことなるし、課題書といっても結局はそれを選んだ主催者の好みの問題じゃないか、ということになりかねない。それでまあそういうのがある、小説が不向きかなというのがあるわけですが、江國香織で読書会となった時、ぱっと思いついたのが「とるにたらないものもの」でした。分量としてもコンパクトで、コンセプトもはっきりとしていて、参加者めいめいがどの作品を気に入ったのか、というスタイルにすれば非常に読書会向きの課題書だと思います。
 それで一応理窟をつけると、人生と趣味、というのは文学史的に非常に重要なモチーフなわけですね。これは余談ですがUtilityという概念がイギリス文学にはあって、読書っていうのは人生に益するものでなければならないというのがあったりしたんですが、とにかくまあ、近代になって小説(ロマン)というのができて、人間が人間について物語を書く、だから人間とはなにかとか、いかに生きるべきかとか、幸福とはなにか、成長とはなにかというのが一貫して、まずはそこではテーマであってきたわけです、わかりやすくいってこれはロシアなので後ろの方になるけれどもトルストイとかが、わかりやすいですね。読んだことがない方でも「戦争と平和」、とか、タイトルだけでおおかた内容は察しが付くわけです。登場人物たちは人生について悩んで歴史に揉まれて、そしてまた平和とかなにかとか、トルストイ流の回答のごときものも一応そこに入っているような小説。
 ところがそれが二十世紀になってくると変わってくるわけです、例えばジョイスのように小説は言語芸術なのだから言語でできることをやろう、ということになっていく、――そうでなくとも、というかそことも連関をもちながら、江國香織はラスキン的であるしこっち寄りなのでしょうがプルーストのような美意識、趣味こそが問題となって、人生について問うということ、人生とは何かとか大上段の問いを呈示すること自体が「野暮」となるような、地平といおうか、小説が書かれ始める。もうそれが野暮なことになっていって、ただただ、プルーストはひたすらに自分の感性の世界、追憶の世界を洗練された優雅な文章で、書いていく、ひとまとめにしてしまってそれが「趣味」の世界なわけです。ボードレールのころにはそれがもう端境期としてあったというか、ボードレールがあったことを示しているわけですが、善かれ悪しかれ二十世紀以降、この趣味(や純粋な言語的な模索)の地平から小説というものが多く書かれてゆく。
 だからそもそも人生か趣味か、というのははっきりといって、どちらを好むかはもう本当に読者の好みの問題でしかないのだけれども、江國さんのこの文章を読んでいると、そこがよくわからなくなっていく、それが面白いと思うのですね。僕は最初、これを趣味寄りの本だと思っていたわけです、そしてその趣味というのをかくも突き詰めて散文にしてゆく、徹底化してゆくと、どうもそこにいるのは江國香織というどうにもならない固有性、彼女がそこにいるのだという実在性であったりそれこそ人生の問題に、一周まわって回帰してゆくというか、行き着いてしまう。そこが面白い本なのだと。ただ、そこは江國香織さんというのは一貫して他者との相互理解の不可能性、というのを見詰め続けて書いてきた作家であるから、やっぱりそもそもが人生、という方にどうしようもなく振れていた作家であったのかもしれない、とも思うわけです。
 どうあれその二分論も意味がないかというか、読んだ方々がそれぞれ人生派か、趣味派か、ひとまずはおひとりずつ聞いてみたいと思っております――ちなみに私は人生派に極振りをしているつもりなのですが(笑)。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。