「週刊誌」という世界#12 週刊誌は世界で闘えるか
晴天の霹靂
2010年10月、僕は編集部のデスクでメモをまとめていた。既に編集部から発注された取材があり準備をしていたのだ。すると遠くから編集長が「おう、赤石くんがいいんじゃないか」という声が聞こえてきた。
ん? 何の話だ。
僕がそば耳を立てていると、スタスタと編集長がよってきた。
「赤石くん、今晩からチリに行ってくれないか?」
と言うのだ。
チリ!? え、チリ? さすがに急すぎません?
週刊誌記者として当日出張を命じられることは日常茶飯事である。そのために自宅ではすぐ出張に行けるようパーッケージされたスーツケースがいつも置いてある。しかし、いくら当日出張が当たり前といえども、せいぜい沖縄や北海道だ。南米に今から行け、という発注は前代未聞だった。
なんでも、当初チリ取材をお願いするはずの外部記者のパスポートが切れていたというのが、赤石チリ行きの理由らしい。もちろんプロとしてチリ行きは承諾せざる得ない。同じくチリ行きを命じられた同僚のK記者と、羽田合流の約束をして自宅にスーツケースを取りに帰った。
渡されたチケットは当日手配のためか、メチャメチャな行程だった。羽田からまずソルトレイクに飛び。ソルトレイクでトランジットしてアトランタに行く。アトランタで再びトランジットしてアルゼンチン・ブエノスアイレスに飛ぶ。ブエノスアイレスでまたまたトランジットして、ようやくチリ・サンチアゴに入る。ここで終わりではなく、サンチアゴでトランジットして最終目的地のコピアポまで飛ぶ。都合トランジット4回、34時間の旅である。
取材テーマは、2010年8月5日に発生したチリの坑道の崩落事故の取材だった。世界的にニュースになった同事故は、崩落により33名の男性鉱山作業員が閉じ込められ、世界がその安否の行方を固唾をのんで見守った。事故から69日後の現地時間10月13日に全員が救出されるという、奇跡の物語となり再び世界中で報道された。
事故が起きたサン・ホセ鉱山はコピアポの45キロ北に位置する。
K記者は海外在住経験があるベテラン記者だった。ニューヨークで仕事をしていたことがあるだけではなく、スペイン語もそこそこ話せるという語学力を持つ。外国人負けしない大柄な体格を持ち、かつ朗らかな性格で。二人旅をするには最高のパートナーだった。
もう二度と来ることのない場所
飛行機のなかでは、まず通訳探しを行った。僕の語学力といえばカタコトの英語のみ。スペイン語はオラくらいしかわからない。
K記者の通訳はFacebook等から調べて、英語とスペイン語の通訳が出来るチリの女子大生に決まった。
僕は知人にお願いしてパラグアイの日系人・弁護士に通訳をお願いした。パラグアイから来てくれ、という無茶なお願いを聞いてもらった。
ブエノスアイレスまでのフライトはエコノミーでしんどい思いしかなかった。長時間フライトで臀部が骨折したのかと思うほど痛かったし、退屈だった。
しかし、そんな長旅にも最後にプレゼントが待っていた。サンチアゴからのフライトは、景色が最高だったのである。アンデス山脈沿いに飛行機が飛び、雲の少ない南米の地上を見下ろすと地上絵らしきものが目に入った。人生のフライトのなかで、最もダイナミックな景色を見たのがサンチアゴーコピアポ間の景色だった。
コピアポ空港に降り立つと砂埃のまじった生暖かい風が吹いていた。飛行機からタラップで地上に降りて徒歩で到着ロービーに向かう。周囲ははげ山だらけ。
「人生でここに二度と来ることないんだろうな」
到着した途端にそう思うことは海外ではあまりないが、あまりに観光地とはかけ離れた光景にし、思わず独り言ちた。
予約したあったホテルはカジノホテルだった。白い豪華な内装は、まさにパレスという雰囲気である。通訳とホテルの手配は知人にお願いをしてあった。なんでもこのホテルはサッカー・チリ代表が投宿するような有名ホテルだったらしい。
通訳はまだ到着していなかったので、まずK記者と現場であるサン・ホセ鉱山に向かった。鉱山はまさに”祭り”状態であった。世界中のメディアの記者が来ており、ざっと100人以上のテレビ・新聞などの世界中のメディア関係者がサン・ホセ鉱山に集まっていた。ヘリコプターが空を舞い、テレビレポーターがアチコチで生中継レポートをしている。
今回の取材で最大の問題が時間のなさ、だった。
週刊誌は日本国内だと6日間の取材時間がある。しかしチリとの時差、フライトでのロスを考えると、僕たちに与えられた時間は実質3日だった。原稿執筆等々を考えると実質2日半。2日半で世界中のメディアに負けない報道が出来るのか? ジャパン&週刊文春の負けられない闘いが3日という短い時間で始まった。
週刊誌ではまず取材を始めるときに、取材計画を立てる。総論的な記事にするのか、独占を目指すのか。様々な可能性を分析して、限られた取材班のなかで取材の優先順位をつける。
K記者との議論のなかでお互いに取材ターゲットは1つだね、ということになった。
不倫男の独占インタビューを狙おう。
(同事故は映画化もされた)
不倫男を探して
同鉱山の落盤事故報道のなかで、1つのメロドラマが世界中の話題を独占していた。21番目に引き上げられた電気技師のヨニ・バリオスさんの三角関係だった。救出され前、28年間連れ添ったバリオスさんの妻マルタ・サリナスさんと、愛人のスサナ・バレンスエラさんが日々テレビに登場していた。
二人は共に、「バリオスさんが愛しているのは自分」という主張をしており、その愛の行方が取り沙汰されていた。
そしてバリオスさんは救出後その姿を消していた。
通訳が到着して、カジノホテルで打ち合わせをした。僕の通訳はパラグアイから飛んできてくれたH氏。K記者の通訳は女子大生のⅮさん。これからエリアを手分けをしてバリオスさんを探すことになった。
コピアポの街は質素な平屋が多く道路には痩せた野犬がウロウロしていた。
バリオスさんの自宅住所はわかったも、コピアポ地番のつけかたがメチャクチャで自宅がどこにあるかわからない。初日は22時まで取材をしホテルに戻った。
翌日は朝6時にロビーに集合し地元紙の読み合わせを行った。まだバリオスさんの行方はわからないままのようだ。1つ興味深い記事があり、地元紙がバリオスさんの三角関係について記事を書いており、彼のセクシャルプライバシーについて指摘していたのだ。僕は記事の概要をメモすると、取材に出かけた。
まだ早朝なので、まずサン・ホセ鉱山の様子を通訳のHさんと見にいった。朝からテレビクルーやら記者が動き出している様子が見えた。ヨーロッパ人らしきジャーナリストが、他国の女性レポーターをナンパしてる光景が目に入ってきた。真面目に取材している記者もいれば、物見雄山で来ているジャーナリストもいる。記者やジャーナリストという人種にはいろんなタイプがいるというのは万国共通だなと、変な感慨を覚えた。
H通訳は前述のようにパラグアイの弁護士で、実家はパラグアイの野菜マーケットの3分の1を独占している大企業の御曹司だった。もちろん専業通訳ではなく、週刊文春の取材に興味本位で乗ってくれたかただった。
「記者の仕事って、まさにアドベンチャーですね!」
H通訳は興奮気味だった。彼はルイビトンのケースを装着したスマホで風景写真を何枚も撮影していた。確かにサンホセ鉱山の雰囲気は映画「インディジョーンズ」の世界観そのものだった。
9時に街に戻り昨日に続いて聞き込みを始めた。
「バリオスさんのお住まいご存知ですか?」
「バリオスさんをご存知ですか。どんなかたですか?」
聞き込みを始めて1時間。「バリオスはあそこに住んでいるよ」という証言者に辿り着く。勢い勇んでバリオス宅に行くと留守。隣人に聞くと「マスコミが煩いから愛人の家に行っているんじゃない」という。急いで愛人宅を教えてもらいメモ、通訳とともに走る。
独占インタビュー、本当は…
愛人宅のレンガ造りの家が見えてきたところで、ちょうどカメラクルーが入るところが見えた。
「しまった先着された!」
仕方ないのでクルーの後に部屋に入るとバリオスさんが観念したかの表情でインタビューに応じると話しているのが聞こえた。テレビクルーはアルゼンチンメディアのようだ。急いでH通訳に「日本の週刊文春です。私たちもインタビューいいでしょうか?」と聞いてもらうと、バリオスさんは「わざわざ日本からも来てくれたのか。ありがとう。もちろんインタビューはオッケーだ」と快諾してくれた。
世界で2番目である。一番になれなかったのは残念だが、隣国のアルゼンチンには地の利がある。世界中のメディアで2番目に彼を見つけたなら及第点だろう、と言い聞かせてアルゼンチンメディアのインタビューが終わるのを待った。
僕たちのインタビューの番になると、バリオスさんは再び「わざわざありがとう」と言ってくれた。世界では三角関係もあり好色男だと見られているが、すごく誠実なかただった。
不倫の経緯を聞いて行くと、バリオスさんはカソリック教徒であり離婚するのが極めて難しいので、いまのような状況になってしまったんだと素直に話してくれた。横には愛人のバレンスエラさんが静かに座っている。
バリオスさんは妻のもとには帰らずバレンスエラさんを選んだのだ。
厳密に言うと二股というわけではないようだ。
H通訳が唯一嫌がった質問があった。地元紙に書かれていたセクシャルプライバシーについての質問だ。
H通訳「赤石さん、本当に聞くんですか…」
赤石「当然です! 聞いてください」
5分ぐらいスッタモンダした後にH通訳は質問をしてくれた。
バリオスさんは押し黙ってしまった。
すると、横のバレンスエラさんが「そうよ」と話し始めた。
バリオスさんの困った表情をみて彼は素直だな、と思った。一方で”女は強し”を思わせたのがバレンスエラさんだった。
僕はH通訳に「でも、奥さんとバレンスエラさんって似てません」と聞くと、「似てますよね。やはり好みってあるんですね」とH通訳は日本語で答えた。
妻も愛人もともにふくよかな女性で、なんとなく顔も似ていたのだ。
ホテルに帰り急いでノートの読み合わせをK記者とした。日はとっぷりと暮れていた。
当時はカジノホテルみたいな高級ホテルでもワイファイが常備されておらず、原稿は編集部で書くことになった。僕たちは国際電話で取材した内容を全部編集部に伝えた。さすがに一日中走り回ったのでヘトヘトだった。冷蔵庫にあったレッドブルを呑むと、いきなりシャキーンっと目が覚めた。注意書きを読むと「飲み過ぎは心臓発作のおそれがあります」とかか書いてある。日本のレッドブルで覚醒することはないが、海外レッドブルはなんかヤベー効用があるようだ。
新聞を読み、明日午前中の取材計画を立てた。コアとなるバリオスさんインタビューは取れたのであとは周辺情報を集めるだけだった。
ベストチーム
僕たちの取材は右トップ記事となった。K記者もスクープ情報をとってきており、日本メディアのどこにも書いてないレポートが出来たはずだ。
結局、地道な努力が取材成果として出るという話でしかないのだが、世界中から100人近い記者、ジャーナリスト(物見雄山の方もいたが笑)が取材合戦をしているなかで、週刊誌的な取材はそれなりに通用したという自信もついた。
例のセクシャルプライバシーについても、後の号で記事にした。
2日半走り回っただけの結果が出せた記事となり、心地よい疲労感を覚えた。取材班はサンチアゴで解散することになり飛行機で3人移動した。
Ⅾ通訳は紅一点ながら、4人チームのムードメーカーで様々なトークで盛り上げてくれた。実は彼女、チリの全大学で3番目の秀才らしく、令嬢でもあった。サンチアゴの自宅まで送っていくと一目でわかる高級住宅街だった。彼女との㊙の話はまたどこかでしよう。
彼女とは翌日、文春チームと彼女の知り合いの大学生たちでランチをしようと約束をして別れた。
一息ついたところで大問題が発生した。さて、サンチアゴで一泊をしようと手配を試みたものの、どこもホテルが取れない。僕たちがいくら電話しても「満室」との返答が返ってくるだけ。まさかの、サンチアゴで宿無しになるのか。
途方にくれる僕たちを見て、「私が連絡しましょうか?」とH通訳が言ってくれた。
例のビトンのスマホを取り出すと、交渉を始めた。
「取れましたよ」
H通訳があっさり部屋を確保してくれたのだ。あれだけ僕たちが電話したのに。謎の手際良さに感謝を伝えた。
H通訳ともここでお別れ。
「みなさん、凄く良い経験をすることができました。今度はパラグアイで逢いましょう!」
H通訳はナイスガイらしく爽やかに去っていった。
「彼はコピアポ空港でも、すぐに飛行機のチケット抑えたじゃん。ホテルもそうだった。明らかに僕らじゃ手配できなかったチケットなどを抑えた。もしかしたらセレブ特別枠を持っているのか、それとも某系の人かもよ笑」
K記者が頬緩めて茶化した。
「マジ、それあるかも」
僕も笑った。
H通訳の誠実な性格で取材で助けられただけではなく、困ったときに謎のパワーで僕たちを助けてくれた。
おそらく、二度と4人が揃うことはない。短い時間であったが濃厚な経験を共にした。4人は最高のチームであり、最高の友情を築けた3日間だった。
バリオスさんの誠実さも心に残った。コピアポの風景を忘れることはないだろう。
こうしてチリは僕にとって最高の思い出の一つを作ってくれた国となった。
(了)
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