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週刊誌記者という「世界」#3 「憂鬱」な合コンと、ノンフィクションの「恍惚」

”アジト”のメンバー


「ジャーナリズム文章教室」で仲良くなったメンバーはみな個性的だった。

湘南からきたY氏は、いつもガンダムのTシャツにジーンズというロックな恰好をしていた。「赤石さん、やっぱ変な人だねー」とニャッと笑う。いつどこにおいても面白いことを見つける才能がある奴だった。

高田の馬場にあるY氏のアパートはエントランスが蔦に覆われた風情あるアパートだった。三々五々、彼の家に集まっては雑談に華を咲かせ、新聞作りの企画を練った。いわゆるアジトに集まり、喧々諤々する日々は、本当に楽しかった。


理系大学出身でお堅い仕事をしていたH氏は僕と同い年のオールドボーイだった。人見知りで優しい性格であり、その意味では主張が強い僕とは正反対。理知的な人間であり、新聞作りにおいてはその知識が大きな力となった。


最年少のK氏は、何かを抱えていた若者だった。一橋大学を卒業後、ゲーセンでバイトを始めるという風変わりな選択をしていた。父親は東大教授、家族もエリートばかり。彼も人見知りであつたが、一度火が付くと話が止まらないという秘めたる情熱を持っていた。

が、4人で夢を語ったという記憶はない。とにかくいま面白いことをしよう、そんなノリで集まっていた。

『レッドジーンズ』という名前の壁新聞は、都合10号くらい出しただろうか。記事を書き、コラムを入れ、僕が四コマ漫画を描いたこともあった。ジャーナリズム文章教室批判を書いたり、面白い受講生に原稿依頼して紙面の充実をはかった。原始的なメディア体験をすることができた。

「困ったときは弱いほうの味方に」

僕はエディタースクールのカリキュラムを一年ほどで修了したが、ジャーナリズム文章教室だけは2度受講(3度だったかも?)した。何を教わる訳でもない空間だったが、いろんな人が集まるところが刺激的だった。

鎌田さんはある日の飲み会でこう言った。

「取材で(スタンスに)困ったときは、弱いほうに付くといいよ」

この言葉は現在に至るまで、僕の取材者としての指針にしている。

いろんな意見、事実があるなかで書き方に困ることは日常茶飯事で起こる。強い物には発言権もあるし、チャンスも多い。しかし弱い人にはそれらが少ない。弱者の意見の汲み取り、書くことは記者として重要な役割の一つだと思う。


長く日韓歴史問題を取材しているときも、僕は鎌田さんのこの言葉を噛み締めていた。歴史問題という複雑な問題を見るときの視座として重要な言葉だった。

戦争被害者や元慰安婦のかたがたの声を拾っていくなかで、新聞報道では見えない歪んだ構図が見えてきたのだ。弱者を利用している強者たちの姿である。詳しくは拙著「韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち」(小学館新書)に書いているので、ここでは割愛させてもらうが、今までにない新しい視座で日韓問題を書くことが出来たことは大きな自信になった。

まさに僕に取材に迷ったときの「指針」を与えてくれた鎌田さんの言葉だった。

余談であるが、上記著作で協力して頂いた日韓問題に精通しているU女史と、鎌田慧さんは昔「ヤングレディ」(講談社 廃刊)という週刊誌編集部で机を並べた同僚だったことが後にわかる。奇縁というものはあるな、と思った次第である。


鎌田慧さんの「教え」

「ジャーナリズム文章教室」は、前述したように特に学ぶものがない授業でもあった。特に鎌田さんの授業はそうであった。

「うーん、文章を書くときなるべく漢字はひらいた(ひらがなにする)ほうがいいかな」

ある講義でふと鎌田さんがこう語ったことがあった。ところが即座にこう続けた。

「あ、鎌田がこんな指導してたなんて言わないでね」

鎌田さんはそう付け加えると、気恥しそうにモジャモジャ頭を掻いた。多くの生徒は「なんで? 教えてよ」とポカンとしていた。

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ルポライターの鎌田慧氏

僕はなるほど、と思った。

ジャーナリズム文章教室のモラトリアムで不確実な空気は、意図的に演出されていたものなのだと。自分で考え行動することがジャーナリズムの原点であり、何かの教え通りに書くことではないんだ。鎌田さんは「僕の本を読んで一人でも何かを感じてくれればいいと思っている」とも語っていた。

ジャーナリズム文章教室はノウハウ塾ではない。「自由に書く」ことを教えていたのだ、と僕は理解した。鎌田さんが教えたいことは「自分で考え動く」ということあり、それこそがジャーナリズムの原則なのだ


講義後は水道橋の「ひょうたん茶屋」で講師と生徒が酒を酌み交わすことが恒例となっていた。林浩之氏という事務担当の人もまた面白い人で、「君はそのままでいいのか?」と挑発してくるのだ。こりゃ、なんとかライターとしてスタートしなといけないかもな、と焦るようになっていた。

モラトリアム後の人生が始まった

29歳になり「レッドジーンズ」のメンバーはジャーナリズム文章教室を卒業し、それぞれの道を歩むようになっていた。

Y氏は政府系広報誌編集の仕事を始めた。バンドマンみたいな風貌の人間が政府系広報誌の取材をしている姿を想像すると、思わず吹き出してしまう。やはり面白い奴だなーと感心した。


H氏はピースボートに乗り世界一周の旅に出かけてしまった。恋多き男だった彼は、おそらく船中でもいろんな恋をしたことだろう。いまはその知識量を活かして行政書士として活躍している。

ゲーセンで蝶ネクタイをしていたK氏は、ある雑誌編集部に入社し、その後、記者となった。原発問題を取材するなど鎌田イズムを感じさせる活躍をしている。

ジャーナリズム文章教室のモラトリアム期間を経てみな大人になろうとしていた。
 
しかし僕だけはフラフラしたままだった。バイトをしながら、ようやく「ライターでもすっか」といくつかの仕事を始めるようになっていた。

前に書いた編プロのバイトは三か月で辞めていた。

時給バイト代が月15万円を超えるころ、年下の編集者から「赤石くん、社員にならないか?」と言われたのだ。社員の給与は15万だという。社員というニンジンのように見せかけて、ただ"定額使いたい放題”にしたいだけか、と僕は理解しさっさと辞めた。

別に編集やりたい訳ではないし、搾取されるだけ時間の無駄だと思ったのだ。

しばらくプラプラした後に、九段にある写真ライブラリーで写真整理のバイトを始めた。そして、ライター売り込みも始めることにした。

「ダカーポ」(マガジンハウス 2007年休刊)、「JN」(実業の日本社 2002年休刊)、「サイゾー」(当時インフォバーン・ 現サイゾー社)、「現代農業」(農村文化協会)などに売り込みに行くと、意外とアッサリ仕事を貰うことが出来た。ようやく記事を書く仕事をちょこちょこ始めた。

書く仕事はやはり楽しい。雑誌に自分の名前が載ることも、なかなかに自己肯定感を得ることが出来る。


が、ルポライターやジャーナリストの仕事とは趣が違う。そんな葛藤が生まれ始めていた。

初めて現場を踏む


#2で書いたように、フリーター兼フリーライターとして一年くらい経とうとしていたときに、T氏から「そごうを取材しないか」という話をもらったのだ。

これはルポライターとして仕事が出来るかも! と思い早速手がけることにした。

「そごう」は新規出店した土地を担保に融資を受けて次の出店にあて、さらに融資を引き出す「浮動担保」と呼ばれる手法で駅前出店を拡大し、地価急落で行き詰まった会社だった。つまりは経営ミスで、従業員が酷い目に遭っていた。にも関わらず水島会長は私腹を肥やしマスコミからバッシングを受けていた。

僕がゼネコン時代に一つだけ形として残していたものがあった。愛車ゴルフカブリオレだった。5年あまりの会社員生活でローンは完済することが出来ていた。

モスグリーンのオープンカーは、電動ソフトトップが開く割と軽薄な車だった(笑) そのときはモテようと思って買ったが、貧乏ライターになったことにより取材手段として使うようになった。


月刊記録の原稿料は僅かであり取材費は出ない。なら車に寝泊まりすれば取材費を節約することが出来る。見栄で買った車だったが、初めて大きな利用価値を感じたものだ。

連載最初の取材は多摩そごうに行くことにした。僕は下道で多摩センターに向かった。

多摩そごうがオープンしたときはニュータウンの希望に溢れた時代だった。同店のキャッチフレーズは「はじめまして、新・山の手社交界」。しかし新山の手の未来は、その後暗転する。かつてサラリーマンのベットタウンと賑わった同所は、都心から遠いということもあり住人が減少し寂れつつある場所だった。

車窓を暗い色の建物が流れる。運転しながら、初の現場取材だと緊張している自分を感じた。

多摩そごう

多摩そごうは、そごう破綻とともに閉店した

フリーライターとしてこれまでアポあり取材はいくつかこなしていたが、今回のルポはアポなし取材だ。

とりあえず現場に行ってから考えようというノリである。一方でアポがないので、本当に原稿を書けるのかという不安もあった。


そごうが破綻し会社が無くなってしまったが、多摩そごうは従業員だけによる自主運営が続いていた。

僕は周辺をふらふらしながら、従業員に声をかけらずにいた。

いきなり「話しかけていいのか?」「苦しい状況の人に話を聞くのは失礼かもしれない」「仕事中は駄目だよな」、ぐるぐる歩き回りながら躊躇を繰り返していた。

3時間あまりが経過し、ようやく勇気を出して声をかけることにした。

30代の主任らしき男性従業員に「お話をお伺いできますか」と恐る恐るたずねた。こんな突然の取材で、話してくれないかなと思っていたが、主任のかたは「仕事終わりに時間を作りますよ」と言ってくれた。

20時過ぎ、僕は街灯の下で一時間あまり話を聞いた。

「会社はもうない。でも、私たちはここでやってきた。だから店を棄てることは出来ない! 出来ないんです!!」

従業員は熱い口調で話を続けてくれた。デパートマンとしてのプライド、経営陣への怒り、仕事への愛、僕は少し感極まりそうになりながら話を聞いた。

涙が出そうになったのには理由があった。

僕が勤めていたF社は僕が退職した2年後、民事再生法の適用を受けていた。つまり倒産(正確には破綻)していたのだ。会社は大幅に縮小され、現場で肉体労働をしていた下請け業者は支払いが無くなった煽りを受けバタバタ倒れた。しかしF社だけは民事訴訟法が適用され会社としては生き延びたのだ。

ある意味では僕の予感は当たっていたのだが、粉飾決算を繰り返していた幹部たちの経営責任が問われることはなかった。社員や下請けだけが不実のツケを払わされたのだ。

倒産は、いつだって弱者にしわ寄せがいくものなのだと思う。

“数字を追うな! 現場を見ろ!!”。主任の怒りは、そう語っているかのように聞こえた。

Tさんが編集者を務める「月刊記録」という雑誌で、僕の連載「倒産! そごうを歩く」がスタートした。「月刊記録」は鎌田慧さんも連載陣に名を連ねる歴史あるルポルタージュ雑誌だった。が、時代の移り変わりにより部数が激減し、ミニコミになり、ブックレットになるなど苦しい経営のなか運営されている雑誌だった。

「赤石さんの年収はいくらなんですか?」

28歳で会社を辞めて3年の月日が経とうとしていた。僕はフリーライターとして編集や記事執筆の仕事をしながら、月1で「月刊記録」でルポライターの真似事をする月日を送っていた。

「赤石さんって年収どれくらいなんですか?」

一瞬場が静まり返った。

場所は都内の居酒屋。僕は合コンに参加して「フリライター」と自己紹介をしたところだった。

会ってものの10分で、初対面の女性に年収を聞かれたのだ。あまりに不躾な質問だが、「30歳フリーライター」という肩書が会社員女性にとっては謎過ぎたのだろう。

「うーん、月収40万円くらいかなー」

僕はこう答えた。

年収ではなく月収で答えたのは、ウソはつきたくないが年収も正直に話せないという葛藤があったからだ。

先月のギャラは良かった。「現代農業」という雑誌の特別号の編集を行ったのでまとまった金額が入金されていたのだ。しかし、二ヶ月編集して40万だから、月換算では20万である。しかも不定期仕事なので、翌月の月収は下がることが確実な状況だった。

5千円の原稿料という仕事もあるなかで、平均すると月収は15ちょいほど。年収では200~300万円がせいぜいだった。サラリーマン時代の半分以下の年収であり、退職後のフリーター時代とさほど変わらないレベルだった。

「へーそうなんだ」

女性は「けっこう少ないなぁ」というような面持ちで話を終わらせようとしていた。(40だったらいいだろ!)と見栄をはった僕は心のなかで舌打ちした。もちろんこの合コンで僕が素敵な女性と巡り合うことはなかった。

気分のままにフリーライター生活を始めたが、急に現実に押し戻された気分になった。

ルポライターとしてはまだアマチュアでしかない。記事や編集をする仕事も、発注される仕事だから不安定である。自分の将来がどうなるか全く見えなかった。JNの連載が休刊のために終わるなど、同じタイミングでいくつかの仕事が切れてしまい、収入が減り始めていたことも不安を大きくさせた。

まだうだつの上がらないライターでしかなく。ジャーナリズム文章教室で面白い仕事だと感じた、ルポルタージュやノンフィクションを書いていく道へはまだまだ遠かったーー。

ノンフィクションライター講座

「ノンフィクションでどう生きていくか。まずは収入のある奥さんを見つけることかな」

日本エディタースクールで開講された「ノンフィクションライター講座」でのこと。講師の野村進氏(ノンフィクションライター)はこう冷ややかに語った。

(稼げる奥さんって。ノンフィクションをやる為の道はないのか。全く現実的じゃないじゃん!)

合コンで夢破れていた僕にとっては極めて辛辣な言葉だった。

「ノンフィクションライター講座」は野村進氏が全ての講義を担当する短期集中の特別講座だった。

「ジャーナリズム文章教室」を運営していた林氏の肝入り企画であり、同講座に入り浸っていた僕は生徒側の「幹事」としてこの講座の運営に携わっていた。


全六回の講義は取材準備から書く方法まで、充実した内容で構成されていた。

人生プランとしては厳しい言葉から始まったが、ノンフィクションの技術や考え方については深い話が続いた。僕は夢中になってノートをとった。

講義のなかで立花隆流のデスクの作り方という話があった。

ノンフィクションを取材するのは膨大な取材メモと資料が必要とされる。その為には広い机でメモや資料を並べ、俯瞰することが出来ると原稿が見えてくる。しかし、大きな机というのはなかなかない。

ではどうするか?

立花隆氏はホームセンターで大きな板を買ってきて、二つの木箱の上に乗せて簡易机を作ってたそうだ。

すっかりノンフィクションファンになっていた僕は、早速ホームセンターに行って2mの板を買い、同時に木箱も2つ手に入れて簡易デスクを作った。これで「月刊記録」の記事は更に良くなるはずだと悦に入ったりした。


この簡易机はその後、捨ててしまったが。いまは大きなダイニングテーブルを買い、本を書くときはそのうえに資料を並べ、構想を練るようにしている。やはり小さな机や、カフェで書くよりも圧倒的に構想が浮かびやすい。


話を戻そう。

「ノンフィクションライター講座」は学びになると同時に、逆に更なる焦りを感じさせる講座でもあった。

フリーライターを始めたもののノンフィクションやルポライターの道は、まだまだ遠い。稼ぎのある彼女も見つからなそうだ。31歳になった僕はこれからどうすればいいのだ?

軽く絶望していた、そのとき。人生の歯車がカチっと回った。

ある日、こう声をかけられた。


「赤石君、週刊誌記者にならない?」

興奮と絶望を与えてくれた「ノンフィクションライター講座」が、僕に大きな転機を与えてくれることになったのだ。


(つづく)

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