週刊誌という「世界」 #8 ”狂った季節”のはじまり 新章:週刊文春編
僕にとって2006年は”狂った年”だった。
年明け早々の1月16日、東京地検特捜部が「証券取引法違反」の疑いでライブドアの捜索に乗り出したのだ。東京・六本木の本社や堀江貴文社長の自宅などが家宅捜索の対象になり、ニュースはライブドア事件一色という展開となった。
人生を分けるデスク判断
週刊文春のプラン会議は毎週木曜日に行われる。1月19日、週刊文春編集部で記者の招集がかけられ、ライブドア事件特別取材班が編制された。デスクは新谷学氏を筆頭に複数デスク体制となり、記者は10人ほどのメンバーが集められた。僕も新入り記者として会議に参加した。
新谷デスクは「それぞれ取材案はないか?」と聞いた。
特捜の動き、堀江貴文氏の動向etcなど様々な案が提出された。
僕は挙手をしてこう提案した。
「今日朝報道された沖縄で自殺されたという野口氏が気になります。取材してみてはどうでしょうか?」
野口氏の件はちょうど今朝メディアを騒がせていたニュースだった。
ライブドア本社と社長である堀江貴文氏の自宅が東京地検特捜部に家宅捜索された3日後の19日朝、ライブドア元取締役で、同社が出資する匿名投資事業組合を管理していたエイチ・エス証券副社長の野口英昭氏が、沖縄・那覇市内のカプセルホテルで血まみれの状態で発見されたというのだ。
ライブドア事件で死者が出たことでメディア報道は更に過熱していた。野口氏は家宅捜索の2日後である18日に沖縄に飛び、カプセルホテル内で血まみれになり救急車で病院に搬送された直後に死亡した。沖縄県警は発見から4時間も経たないうちに「自殺」と断定した、とメディアでは伝えられていた。
新谷デスクは「おうそうだな。じゃ、赤石は沖縄に飛んでくれ」と言った。
デスクの決断は記者にとってはとてつもなく大きいものとなる。決断1つで偉大な記事が誕生することもあれば、デスクの勘が鈍いことでみすみすスクープを逃すという愚かな選択に付き合わされることもある。このときは新谷デスクの慧眼が、後に僕の人生を大きく変えることになる。
僕は会議終了後、そのまま沖縄に飛ぶべく羽田空港に向かった。
2016年1月から週刊文春に移籍した僕は、新しい職場で2週間目を迎えようとしていた。西崎氏(週刊ポストエース記者)、名和氏(フラッシュの雑誌ジャーナリズム賞受賞記者)という強力過ぎるライバルに負けない為には、何らかの存在感を示さないといけなかったーー。
救急隊員の告白
1月19日夕方、僕は一人で那覇空港に降り立った。冬の沖縄の風はやや肌寒い。エイチエス証券副社長だった野口英明氏が亡くなったのは那覇市内のカプセルホテルだった。
市内外れにあるホテルは物寂しい雰囲気が漂っていた。現場についたころは、各社メディアは朝の第一報を打ち終え続々と撤収していた。現場にはマスコミの姿はなく、僕は1人カプセルホテルの前でたたずんでいた。
じつは一人で那覇に来たものの、どう取材すればいいか判らなかったのだ。
なぜかというと僕はフライデーでは政治取材と張込み取材しかしたことがなかった。昼は政治家事務所を周りネタを探し、夜は張込のために車中で過ごす。誰かが死ぬというケースの取材をしたことがなかった。事件取材の類は初めての経験であり、その勝手がわからなかったのだ。
僕はフライデー後輩のS記者に電話した。前にも紹介したS記者は芸能・事件と幅広くこなす剛腕後輩記者だ。
“引き抜かれた優秀な記者”のイメージで僕は文春に移籍したので、編集部に対して「じつは事件取材をやったことがなくて、どう取材していいか分かりません」なんて泣き言をいう訳にはいかない。困ったときは猫の手でも借りる。つまり誰でもいいから、知見ありそうな人に相談するしかなかった。
彼はすぐ電話に出てくれた。
S「赤石さんどうしたんですか?」
――いや、じつはライブドア自殺の件で沖縄に来ているんだけど。こうした事件の場合はどんな取材をすればいいの?
後輩記者に相談である。しかし恥とか外聞とか言っている場合ではない。1週間で何らかの結果を出さないと、僕は文春編集部から「何も取れない記者」の烙印を押され、いきなりキャリアを断たれてしまう可能性もあるのだ。
S「まず警察署に行って副署長に話を聞いてください。あと消防も回ったほうがいいですね」
――了解、ありがとう。やってみるわ。
S記者は本当に頼もしい後輩だった。まずやるべきタスクを明示してくれた。
ところが警察署を訪ねたものの、ニュースの第一報以上の目立った情報がなかった。次いで消防署を訪ねることにした。
那覇市の小高い丘の中腹に消防署はあった。大きな車庫には消防車と救急車が鎮座している。人気のない消防車に向かって僕は声を張り上げた。
――すいませーん! カプセルホテル自殺の件で取材してまして、当時の様子に詳しいかたなどいますでしょうかー。
するとガッシリした体格の救急隊員がヒョイと顔を出した。
「私が搬送を担当しました。どのようなご用件でしょうか?」
僕は慌てて救急隊員に駆け寄った。
――週刊文春の赤石と申します。強制捜査があった二日後に自殺という報道に違和感がありまして。搬送中に何か気が付かれたことはありましたでしょうか?
「じつは私も様々な自殺現場を見てきたのですが、今回ほど異様な現場は初めてでした」
体格のいい隊員は俯きながら言葉を紡ぎ始めた。彼の中には未だに消化しきれていない何かが残っていることが表情から伺えた。
事件現場となったカプセルホテル
「これは第2の”ロス疑惑”だ!」
心臓の鼓動が早くなり始めていた。何かが動き出す予感がした。
――異様とは? どのようなところがなのでしょうか。
「まず傷です。遺体には頸部の二か所に各5センチ、左手首に5センチ、腹部に7センチの計4か所あり、腹部からは腸が飛び出していました。いずれも鋭利な刃物で刺したうえに引いており、傷口がパックリ開いている状態でした。魚をさばいたような感じです。
ためらい傷ではなく、深さ1、2センチの本格的な傷でした。これだけの傷を自分でつけることが出来たのかは疑問です」
救急隊員は詳細なディテールと分析を語り出した。いきなりの衝撃的な証言にペンを持つ手が震えた。
沖縄県警が「事件性ナシ。自殺」と断定した見解に、救急隊員は疑問を投げかける。自殺をしたにしては遺体が切り刻まれすぎている、というのだ。
野口氏はカプセルホテルという狭い空間のなかで割腹自殺をしていた。カプセルホテルという狭い空間、割腹自殺という江戸時代であれば介錯者を必要とするような壮絶すぎる方法、確かに事件には警察発表をそのまま鵜呑みには出来ないようなキーワードがいくつも存在した。
新谷デスクに「救急隊員がおかしい」と言っていると報告すると、「何? 本当か。これは“第二のロス疑惑”になるかもしれない。赤石、そこを徹底的に掘ってくれ」という指示が来た。
取材を進めると疑念はさらに深くなった。
野口氏が自殺に使ったとされる刃物は、刃渡りわずか10センチのものだとわかったのだ。はたして10センチの刃物で腸が飛び出るほどの切腹が出来るのかという、疑問が新たに浮上してきた。
そして、ホテルに残された血濡れのサッカーシャツという問題も浮上した。東京に住む野口夫人に別の記者が聞くと「主人のものではない」と断言したというのだ。なぜ自殺時にサッカーシャツが置かれていたのか。いったい誰のシャツなのか!? 物証や証言からは、単純に自殺と断定できないような数々の疑問が浮かんできた。
同時に暴力団ルートからは「あの事件は●●という人物が(殺人の)実行犯だ」という、怪情報まで聞こえてきた。
右トップで報道
週刊文春の発売日は強制捜査から一週間後だった。
世間は今なおライブドアの実態や偽計取引の話題で持ち切りであっても、1週間後にはニュースとして古くなっているということは良くあること。溢れる新聞、テレビ報道のなかで週刊誌は更に違う視点で記事を書くことが望まれる。
オーソドックスな週刊誌の作り方で考えると、ライブドア事件は「本記(4~5ページのメイン記事)」で特捜の動きをドキュメントし、堀江氏の人物象とか彼女の話などのサイドピックスを1ページ記事で3~4本を入れて大特集にするという構成だろう。
ところが当時の文春編集部は、僕の「沖縄取材」をメイン記事にすると決断し勝負をかけた一冊を作った。
「野口“怪死”と堀江の“闇”」 (週刊文春 2006年2月2日号)
僕の取材がいきなり右トップ6ページの記事となったのだ。しかも記事には、強烈なリード文がデスクによって書き添えられていた。
沖縄のカプセルホテルで発見された
遺体は、手首、頸動脈、腹が切り裂かれ、
内臓がはみでていた。
チェックインは偽名、
住所は堀江社長の出身地が
乱れた筆跡で書かれていた。
しかもホテルのベッドの上には夫人が
「主人のものではない」と断言する
血のついたサッカーシャツが残されていたのだ。
捜査関係者、暴力団幹部、同僚の証言から浮かぶのは、
ライブドアと「闇社会」のただならぬ関係なのである。
いま、改めて読んでも熱のこもったリードだと思う。週刊誌だから面白おかしくしているのだろうと思われるかもしれないが、僕がどこを取材しても「自殺はおかしい」という言葉があり、ファクトや遺体の様子も事件の闇を感じさせるものばかりだった。全て取材に基づく1ミリの誇張もない記事だった。
あだなは「土下座記者」
出張から編集部に戻ったときみな拍手で出迎えてくれた。僕はちょっとした高揚感に包まれた。
「ナイスでしたね。土下座記者!」
ある記者から冗談交じりに声をかけられた。編集部内では既に僕に渾名が出来ていた。“土下座記者”という名前だ。
由来は沖縄での取材だった。
僕がカプセルホテルに取材に行ったとき、カプセルホテルの支配人に「警察の発表を覆す取材には協力できない。帰ってくれ」と土下座されたのだ。僕は「真実を知りたい。ホテルに記録はないのか?」と、膝を折り土下座をして食い下がった。
この一連の流れが誤読され、僕が「土下座して取材を申し込んだ」という噂になっていたようだ。この土下座記者という渾名が、”執念深い取材をする男”という評を作った。(*現実はノレばはまる取材もあるが、一方でノラずまったくの空振りというケースもあった。つまりメディアはレッテル張りが好きなので、記者もイメージが先行してしまうことが多々ある。僕の実態は普通の記者でしかなかったと思う)。
2月2日号は完売し、ワイドショーでは週刊文春報道発の“怪死”を巡る報道合戦が繰り広げられた。同事件はその後、国会で警察庁長官が見解を求められるほど大騒動となった。
僕は堀江貴文氏とは曰く因縁がある間柄だった。フライデー時代に何度も取材し、当時の彼女だったモデルとのデートも張り込んだことがあった。張込に気が付いた堀江氏は、彼女を表玄関から歩かせて、自分は裏口から逃げようとした。Tカメラマンは「女性を囮にするなんてなんて卑怯な奴なんだ!」と激昂した。
僕は彼の人を蔑ろにする言動に常に違和感を持っていたからこそ、沖縄の「野口氏の自殺」に着目したところがあった。偽計取引云々より、自殺であろうと他殺であろうと「人が死んだ」という事実のほうが現実として大きな問題だと思った。
雑誌が完売したということは、多くの読者も同じ想いを感じていたということだと思う。堀江氏は逮捕勾留をへて刑期を終え、いままた表舞台に返り咲いている。彼はライブドア事件において、未だに死者が出てしまったことへの反省の言葉を語っていない。
事件取材における「台風の目」
ノンフィクションライターの野村進氏は「取材には“台風の目”というものがある。そこを探せ」と話していたことがある。
今回の取材はまさに台風の目だった。野口氏の遺体が発見当日にメディアは現地に集結していた。しかし沖縄県警の「自殺発表」を受け全てのメディアは東京に撤退していた。東京で特捜部の動きに注目が集まっていたこともあり、まさに沖縄の現場そのものがメディア空白地帯となっていたのだ。僕は後輩のS記者のアドバイスを受けながら取材を進めていった。全メディアが撤退していなければ、そんなペースでの取材は許されなかっただろう。
メディアは自殺という一報には奔走したが、新聞、テレビの傾向として、どうしても取材の視線を警察・検察だけに向けがちである。そのために違和感を覚えていた消防隊員の言葉を聞こうとはしていなかった。たまたま遅れて現場に到着した僕はそこに辿り着いてしまった。過熱報道の裏にはじつはエアポケットがあることを実感させる事件だった。
その後、1か月に渡り事件の真相を追い求め全国を飛びまわり取材を続けた。野口氏の奥様のもとにも何度も訪れ様々な話をした。ライブドア関連の出資者が隠蓑にしていた匿名組合の名簿を検証したり、香港法人を洗うなど取材すべき場所は多岐に渡った。自殺であろうと他殺であろうと、野口氏が死ななければならなかった理由を僕は知りたかった。
しかし、いくつかの仮説や真相らしきものを知ることは出来たものの、残念ながら真相解明までには辿り着けなかったことは今も無念に思う。記者として名前を上げることにもなったが、同時に大きな課題も突き付けられた事件でもあった。
初めての事件取材は、少しの高揚と苦い結末を僕に突きつけた。真相解明を出来なかったことは、いまも悔いとして残る。改めて野口氏のご冥福をお祈りしたいと思う。
続くライブドア事件の”狂乱”
しかしライブドア騒動はこれで終わらなかった。すぐに第二波となる「永田偽メール事件」が勃発したのだ。
永田偽メール事件とは、2006年の日本の第164回通常国会において、民主党の衆議院議員である永田寿康氏(故人)によるライブドア事件、および堀江貴文にまつわる質問から端を発した政治騒動のことを指す。当時、粉飾決算事件の渦中にあった堀江氏が、2005年の衆院選出馬に関連して、武部勤自民党幹事長に多額の金銭を送ったという政治問題を永田氏が国会で取り上げ大騒動となっていた。しかし疑惑の証拠とされた堀江氏による電子メールが捏造であったとことが後に判明する。永田氏は議員辞職し、民主党執行部は総退陣に追い込まれたのだ。
偽メール取材班が結成され、僕も班に組み入れられた。
「赤石さんは、永田氏に偽メールを提供したX氏を捕まえてください」
デスクが僕の割振りをこう言ってきた。
偽メールを作成したとされるX氏は全マスコミがその行方を追っている人物だった。
中央区にあるX氏の自宅マンションで、僕はたまたまX氏を捕まえてインタビューに成功した。
どのようにインタビューに漕ぎつけたのかというと、簡単な話でずっとマンションの前に張り付いたのだ。これは部屋にいるなと確信し、チャイムを数度ならしたが応答はなかった。そこでX氏に手紙を書いて投函した。手紙を出しマンション前で5時間ほど待っただろうか。一本の電話がかかってきた。
「赤石さんにお会いしたい」
X氏だった。おそらく何社かのマスコミが手紙を投函したはずだが、X氏はどういう訳か僕を選んで連絡をしてきた。近くのビジネスホテルに部屋を取り、長時間インタビューをした。
僕は複数のICレコーダーを仕込み取材に臨んだ。スーツの内ポケットに一つ、カバンの中に一つ。そしてダミーのレコーダーが一つ。証言を翻す可能性を考えての予防措置だった。
やはりと言うか、ダミーのレコーダーをテーブルに置いた僕に対してX氏はこう要求してきた。
「録音は止めてください」
ダミーのレコーダーを止めたことで安堵したのか、X氏は取材のなかでとうとうと自論を述べた。創価学会が事件の真犯人だウンヌン。彼の言葉をひたすら頭の中で検証しながら、質問を重ねるという形で取材が続いた。
「永田ガセメール本当の「作成者」-X氏VS小誌記者180分」(週刊文春 2006.03.30号)
この記事も渦中のX氏(文春記事では実名)に独占取材を行うというスクープ記事となり、大きな話題を呼んだ。X氏がその後も雲隠れを続けたことで、僕はワイドショーに引っ張り出されX氏を知る人物としてインタビューを受けることになった。
「え! 赤石が偽メールを作った男だったのか」
おっちょこちょいな高校時代の旧友は慌ててこう電話をかけてきた。X氏の元週刊誌記者という経歴を見て、僕と混同したようだった。さらにテレビに映る態度があまりに不遜だったため、僕が悪人だと思い込む視聴者が何人もいたらしい。
「よく番組を見た? メールを作ったのは✕氏だべ。僕は彼を取材をしただけだよ」
僕は苦笑いで返した。
本当にライブドア事件では、クレイジーな出来事が多々あった。そこで運よく一定の成果を上げられたことで、僕は週刊文春編集部からは高い評価をしてもらえるようになった。
1年目に岐路は訪れる
自分の組織記者キャリアを振り返って思うのは「本当に1年目が大事」ということだ。
僕は凄く運が良かったことは事実だ。フライデーでも1年目にスクープに関わり、文春に移籍してからも2週間目でライブドア事件が勃発するという幸運に恵まれた。1年目の成果が僕のキャリアを拓いたことは間違いない。
1年目は誰しもがヨーイドンのスタートを切る。ネタは時の運に左右されるが、1年目はとにかくモチベーション高く何でもやってみることが重要なんだと思う。全力を尽くせば運が巡ってくることもある。前述したライブドア事件のように、「犬も歩けば棒にあたる」ネタにぶち当たる確率も高くなる。
スクープさえ取ってしまえば、こっちのものなのだ。
スクープは記者人生を変える。とりあえず数年くらいは“奴は出来る”という評価のもと仕事をすることが出来るようになる。これが実は大きい。
編集部やデスクから「出来ると」思われた記者に振られる仕事と、「出来ない」と思われた記者に振られる仕事には雲泥の差があるからだ。例えば2006年のケースでいうと、沖縄取材の成功体験を編集部が見ていたからこそ、偽メール事件ではX氏というキーマンを取材するという大きなタスクが僕に与えられることになった。おそらく沖縄で僕が結果を出すころが出来なかったとしたら、偽メール事件では取材班に入っていないか、もしくは取材班に入っていても役割は地味な関係者回りなどで終わっていたはずだ。
よい仕事がよいキャリアを作ることは自明である。人生の岐路が1年目にあると言いたい理由はそこにある。
つまり早く成功すれば、更に成功しやすくなるのだ。その為には1年目は四の五の言わずに、ガムシャラに取材を行うことは大事だと思う。
1年目が大事だというのは、裏を返せばこれは業界が明確な記者育成プログラムを持っていないことの証でもある。つまり素養が最初からある人間は記者に適合しやすいが、勝手がわからず迷う不器用なタイプはキャリア形成に苦労してしまう。僕は数々のノンフィクション作品を読んだり先達の言葉を知見として得ていたことで器用に立ち回ることができた。そして何よりも運に恵まれていた。
メディア現状では1年目が重要だと繰り返し述べた。だが、それは必ずしも良い状況とはいえないことも付言しておきたい。メディアは人材が全てであるのに「才能は勝手に出てくる」と考えていることは大きな問題だと思う。本来は編集部やメディアが記者育成メソッドをもっと磨き上げておくべきであり、多様な人材を生む土壌を作ることこそが業界を活性化させることになるはずだからだ。リソースを最大限に活かせる体質づくりこそが大事であると、本当は思っている。
***
狂ったような数か月が過ぎた。愛用していた旅行用トランクは1か月でボコボコになっていた。体重は4キロ減った。フルスロットルで走り抜けた僕はふとこう思うようになった。
「この調子で仕事をしていたら死ぬなーー」
(つづく)
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