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noteにより『大海を知る』喜び

noteという場所には色んなコンテストがある。

入賞作を眺めてしまうと、本当にぐうの音もでないような素晴らしい作品が並ぶ。少なくとも今の自分には決して書けないであろう表現やストーリーに、打ちのめされない日はない。

しかしそうやって、世間の広さを、そのハードルの高さを知ることができたことに私は喜びを感じている。

「魑魅魍魎がいる」という表現で褒め称えたこともあったと思う。

それこそプロの方が普通にいるのだから、褒めるのもお門違いかもしれないけれど、誰も彼もが素晴らしい文章を書き連ねていて、たまに見るのも辛くなってくる。

やはりコンテストとかが沢山あったりすると、自分もそれなりに頑張って作品を書くし、個人の企画などもあったりして、図らずも比べることができる機会が多かった。

「いいモノが書けた!」と思って、意気揚々と他の作品を眺めると、その恐ろしいまでに才能と努力に溢れた文章の山々に圧倒される。自分も力を入れて書いたからこそ、その歴然とした実力差には脱帽するしかない。

一人や二人ではない。山のようにそういう人がいる。
本当に恐ろしい世界だここは。

そんなことを今年はわりとずっと思っている。

「コンテストに選ばれたい」とかあまりにも率直な記事を書いたこともあるし、選ばれたい気持ちがあるのは事実。同時にこれだけ才能のある人たちがいたら、なかなか一筋縄ではそんなものにひっかからないぞ、と冷静に自分を見ている自分もいる。

『選ばれるための努力』と『熱意』をきちんと込めることができたのか。
そう自問自答をする。

個人的な考えではあるけれど、どんなコンテストでも、そこでの入賞を本気で狙っているなら傾向と対策はあってしかるべきだと思う。
ちょっと前の「○○の○○○ー○」とかでも、選ぶ人が決まっている時点で好きな方向性はわかる。コンテストでもnoteでは審査員の顔が見えることが多いから、その傾向はもちろん意識すべきだ。

ラノベが好きな人はラノベの賞に送るし、純文なら純文の賞に応募する。当然の話だけれど、これだって傾向と対策のひとつ。

そこにいくと「編集部のお気に入り」というやつは、傾向も対策もたてがたいので難しい。ビジネスとかスタートアップ、漫画の比率は高いからといって、じゃあそこを狙おうと思っても人間そう簡単にはいかない。誰が選んでいるというのもわからない。

傾向も対策もたてようがないなら、そこに引っかかるかどうかは気にするだけ無駄だ。気にせずに、ただいい記事を書こうとまい進したほうが精神的に良いだろう。


賞に応募して、選ばれたいという思いがあるなら、そこには単純な「作品の良さ」とは別に一定数の努力が必ず必要なのだと思う。

そう私は思っている。

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そんなわけで猛者の多さにおののく日々ではあるものの、どれも素敵だな、いいな、と感動する日々でもある。

読んだ作品を「良い」と感じることができるのだから、そこに「良い」理由があり、テクニックがあり、まい進するべき道がある。

これがもし、ちっとも良いと思わないのにこの作品選ばれてる、となっていたら、自分の価値観を根底から変えなくてはいけない。それはかなり厄介な事だ。ありがたいことにそうではない。コンテストに選ばれる作品は私から見ても良い。すごく良い。

であるなら、いいなと思うところを端から吸収し、次に生かしていけばいい。そうやって、悔しさと同時に道を示してくれる。

noteというのはライバルと師が同時にいるような環境だ。
なんて思ったりする。

これが一人寂しく、文学賞に小説を書いて送る生活をしていたとしたら、大海の広さもわからぬまま、進む道もわからぬまま、ただ泳ぎ続けていたかもしれない。どう考えても、精神衛生上良くない行為だろう。

この世にnoteが無ければ、そういう行く末だって十分に考えられたのだ。


そんな感じで、私は自分の至らなさと向きあいながら、一歩一歩、上を向きながら今日も私は文字を書く。



#エッセイ #コラム #note #noteでよかったこと #コンテスト #文章 #表現とこころ賞

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