赤くそまった袖口【ショートショート】【#183】

「一緒にしあわせになろう」

 そういわれたとき、私の心のなかにはまるで台風のように強い秋風が吹きこんだようだった。長い間、空をおおっていた暗雲がスッと流れ、切れ目からは光がさしこむ。これまでいろんな苦労があったけれど、この人を好きでよかった。この人を信じてきのは間違いじゃなかった。明日から、私たち二人のしあわせな第2章がはじまるのだ。――そうやってうれし涙をながしたのは桜が咲いていた季節。まだ半年ほど前の話だったはずだ。
 貧しい農家の子としてうまれ、家出同然で、ツテもなにもないまま都会に出てきて数年。彼と出会ったとき、世の中というのはなんとやさしいのだろうと思った。こんなにも簡単に運命の人とであうことができるなんて。もんもんとしたあの田舎の生活もこの出会いのためだと思えば、安いものだった。私はあの時、確かに幸せをつかんだのだ。

 今、そんな私の目の前には一面に水たまりが広がっている。いや――、それは水ではない。どす黒く変色した血液だ。リビングの真ん中には私の愛したはずの人が倒れていた。心から愛していた人。そして今も愛しているはずの人。
 私の手にはべっとりと血のついた包丁が握られている。ついさきほど、彼の胸元に深く突き立てたその感触がありありと残っている。ゆっくりと刃をしたたり落ちる血が、白いブラウスの袖口を赤くそめていた。

 「愛の住処だね」なんて、二人でじゃれあいながらこの中古の家を買ったとき。キラキラした未来しか広がっていなかった。
 ローンは嫌いだからって、私の両親に頭を下げたとき、この人は金銭感覚がしっかりしているんだ人なんだって関心した。今から思えばそれはもう借金はできない状態だったから、なんとかして現金を用意するしかなかったのだろう。
 そんな嘘が長続きするわけない。それ以外にもいろんな違和感はあったはずだ。それにもかかわらず「愛」の一言で、そこから目をそむけていたのはほかならぬ私自身だった。土台から間違っていたのだ。この家も、私の結婚も。

 部屋の隅にすわりこみ、動かない彼を眺めながら、私はもうなにをする気にもならなかった。袖にこびりつき、徐々に固まってゆく血が私の体温も奪っていく。
 きっと生まれたときからそんな運命だったのだ。しいたげられる運命を課せられた小作人のような存在。それが私なのだ。
 どれだけ運命をののしっても、何度昼夜が入れかわろうとも、愛した彼は刈りとられ寝かされた稲穂のように、もう二度と動くことはなかった。


秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ


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百人一首でショートショートを書こう。

きっかけは覚えていないけれど、まあひとつ書いてみるかと思ったからこうして形になりました。そのままマンガにしたり小説にしたりしたものは沢山あるだろうから、すこし違う着地点や切り口を考えよう。

そのくらいのゆるい心づもりで書き始めております。最初は全部SFにしようかとも思ったのですが、まずはこんなもので。正道でなければオッケーでしょう。

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「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)