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「うつむいて唇をかむ」。その姿に見覚えがある

見覚え、というのはある種のフィクションなのだけれど。

この前、うちの子を叱ったときのお話。
発端は良くある「おもちゃを片づけなかったから」というもの。私もやるから一緒に片づけしよ!と始めても、一つ二つ片づけたら、あとは遊びだしてしまう。挙句に「片づけるのイヤッ!」と言い出したから叱った。ええ叱りました。

泣きだすのはテンプレ、でも問題はその後。
泣き続けるでもなく、反論するでもなく。まるでふてくされたように「うつむいて唇をかむ」。そのしぐさ。

そのしぐさには強烈に「見覚え」がある。そう、そこにあったのは、他ならぬ私自身のしぐさだった。子どものころの私自身のしぐさにそっくりなのだ。

記憶って不思議なもので、第3者的に中空から俯瞰しているような形で「覚えている」ものがある。

人によるようだけれど、私には小さいときの記憶にはそういった「見下ろしている」記憶がいくつかあるのだ。それは、きっと後から補正されてしまった部分が多いからなんじゃないかと思う。とにかく、記憶の中で「自分自身を見下ろしている」ために、自分のことなのに「見覚えがある」という表現になるわけだ。

怒られて、泣くでもなく駄々をこねるでもなく、恨めしそうな目に涙を溜めながら、下唇を噛む。一見ふてくされているようにも見える。理由を尋ねても、一向に答えは返ってこない。何かを話そうとしている気配も見受けられない。

もともと良く似ているけれど、この時ほど『自分の生き写しのようだ』、と思ったことはない。

そして、私と同じしぐさにはきっと同じ(もしくは同じような)理由が、彼の中にもあるはずだ。そう思って私は、自分の過去の記憶を掘り起こしにかかってみた。

それは、保育園の年長さんの時だった気がする。

『イモほり体験』という、名前もそのままイモほりを体験して、そのイモをもってかえることができるイベントがあった。細かいことはもう覚えていないけれど、無事にイモほりを終え、一人5個づつのイモを袋に入れて持って帰りましょう、となった。その時、何のはずみか私は他の子の袋に自分のイモを入れてしまい、その子が「自分のイモがない」と泣き出して自体が発覚。
イモが10個も入っていればわからないはずがない、と断定されたのだろう。結果として、私は「意図的に沢山持って帰ろうとした子」と認定されたようだった。

みんな同じ白いビニール袋で、違いもわからず、「重いな」と思った覚えはあるものの、間違えて友達のが入っているとは思いもよらず。「そんなじゃないのに!」と大変傷ついた記憶が残っている。

今から考えると、確かに不自然ですね(笑 気づけよって感じ(笑
記憶の改ざんがあったとしてもおかしくないけれど、まあとにかく今現在、私にある記憶としては、当時そこに悪い意図はまったくなく、単なる過失だったのでした。

その時先生に叱られて、うつむいて唇をかんでいた私。

何かを言い出そうにも、なんと言っていいのかわからない。追求を認めているわけでも、そのせいでふてくされているわけでもない。だから反論や説明が何もないわけじゃない。でも、状況が自分でも理解できていない上に、それを伝える言葉も持ち合わせていない。いろんな言葉が自分の中にぐるぐるまわって、どこからつまんで出したらいいのかわからなくて、ただ黙って唇をかむ。

子供のしぐさは、その時の私にそっくりだった。

結局、色んな反論や思いが渦巻いて、言葉にならない姿なんだろうなぁ、と。……無駄に長い過去編だったわ。お付き合いありがとうございます(笑

だから、またそのしぐさをすることがあれば、とにかくちょっと落ち着いて待ってあげよう。時間を置けば、彼の気持ちもまとまるだろうし、ぽつぽつでも思っていることを教えてくれるかもしれない。もしかしたら、私には思いもよらない正当な理由があるのかもしれない。
もやもやしたままで、ただ叱られて終わってしまったら、いい経験になるはずがないですからね。

「うつむいて唇をかんでいたら、落ち着いて待ってあげる」。

今日もまた、ひとつ親レベルがあがった気がするよ。


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