月に成る子ども(4915字)
この街では、月が満ちては欠ける夜半に、笛の音が聴こえる。
奏者が自分の存在を強調するように、その音はどこまでも伸びていく。夜には無い影の代わりに、この街を通り越してどこまでも。
初めてそれを耳にしたのは、小学校に上がったばかりの頃。
当時は地元のニュースに取り上げられるほど、その現象は注目された。月夜になると、たくさんの人が外へ出ていき、だれもが耳をすませていたのを覚えている。人で溢れ返っていたのに、街はしんと静まり返っていた。
笛の音は、今でも綺麗だ。
でも、毎晩のように街に流れているから、夜中の人の往来は少しずつ途切れていき、また元のありふれた街となった。
いくら出処がわからないものでも、耳になじんでしまえば――そして害がないのであれば――気にかける人はいなくなる。
空が翳れば、雨が降る。それと同じことなんだと。もしくは、廃れた風物詩のひとつとして。
僕も他の人達と同じように、月夜にはその音が聴こえる。
その音が笛のものであることを、ちゃんと知っている。
でも僕にはそれが、ことばに聴こえる。
『をする、曇り、青、息いへ、と形』
初めて笛が聴こえたときから、ずっとそうだった。
それは確かに音ではあるけど、僕にとっては同時にことばでもあった。
そのことばが全くのでたらめだから、そのときに何を言っていたのかは、すぐに忘れてしまう。まるで自分にしかわからない暗号みたいで、幼い頃の僕をときめかせたけど。
子どもの頃は、夜更けになると家をこっそり抜け出し、人目のつかない空き地へと急いだ。長らく手が入っていないおかげで、子どもが一人でかくれんぼをするには丁度よかった。ここなら、誰にも見つからない。
そして僕は、僕の元へ降りてくるはずの音を、じっと待っていた。
『に呼ぶ、光、友の、を誘い、瞳は』
今では珍しくないその音に熱心なのは、僕だけだ。
まだそんなものに熱を入れているのかと、よく言われる。当たり前のようにそこにあるのに、というのが誰かの言い分。それでいいじゃないかと、思うけど。
『追う、と静、霞、そのたび、の方へ』
そんな僕も、今では成人している。
夜中でも、こっそりしなくても外へ出られるようになった。たとえ誰かに出くわしたとしても、小言を言われることはない。もう大人だから。少なくとも、見かけだけは。
子どもの頃に夢中になったものを未だに抱えている僕は、子どもだろうか。他の人たちは大人になったら、何に夢中になっていたのかを忘れてしまうみたいだ。もともと、そんなものなんて無かったみたいに。それが、大人になることだろうか。それじゃあ、やっぱり僕は子どものままなんだろうか。
『いいよ、へ行き、帰る、花』
そういえば、と思う。
昔は、笛がことばに聴こえると言いふらしても、周りの大人たちは微笑ましく肯いてくれた。そんなとき、僕はうれしくて、もっと得意になった。
大人たちは僕を信じてくれたんじゃなく、その優しいまなざしは、わけのわからないことを言い出した僕をなだめるための気休めにすぎなかったことは、成長してからわかった。
自分にしか聴こえないことは特別なことで、僕が成長すればするほど、それは少しずつ異常になっていった。
『遠く、と踊る、が叫び、私、どこ』
成人してから、しばらくが経った。
ひさしぶりに会った昔の友人は、髭が似合っていて驚いた。幼い頃、月夜だけは自分の秘密基地になった空き地には、老人ホームが建てられていた。
僕が変わらなくても、周りのささいなことは確実に変わっていた。
笛だけは変わらず、月夜になる度僕に語りかけていた。笛が僕に何を言おうとしているのかは、わからないままだ。本当は僕がそう思っているだけで、笛は何も言おうとなんてしていないかもしれない。それは僕にとって悲しいことだから、考えないようにしてるけど。
その日のことばはその日で完結しているんじゃなく、笛を初めて聴いたときから今に至るまで、ひとつのことを少しずつ発しているんじゃないかと、時々思うことがある。もしそうだとしたら、僕はそのひとつを永遠に完成させることはできない。
今まで聴いてきたものは、全て取りこぼしてきたから。その日に耳にしたことばでさえ、音が止んだ瞬間に覚えていられなくなるから。
この街にも変わったところはあるけど、0時を過ぎれば人の往来が完全に無くなるところは同じだ。少なかった人口が、昔よりさらに減ったのもある。この時間にこの街で唯一目を覚ましている人間として、僕は外でふらふらしていた。
今日は丁度満月だ。雲の形がはっきりわかるほど、空は明るい。月が満ちるほど、笛はより響く。奏者がすぐそばにいる気さえする。
昔の秘密基地はとっくに無くなっていて、かといって他に落ち着ける場所は見つからなくて、僕はただ歩き続けていた。どこをどう歩いても、顔を上げれば月はすぐに見つかった。
街の広さなんて、たかが知れている。夜通しになる前に、この街の全ての道も道じゃないところも、歩きつくしていた。僕は汗ひとつかいていなかった。笛に導かれているつもりだったけど、僕はどこにも行けていなかった。月は、僕をどこへも導いていなかった。
『に開く、灯り、事を、便り』
大人に成りきれていないことは、いくら装っていてもばれてしまうものらしい。だから、大人になれ、なんてよく言われる。
僕がずっと惹かれているものは、全て夢の類なんだと。そういうものは、大人になれば捨ててしまわないといけないんだと。子どものままの僕は、どうして、と思った。
『を呼ぶ、人、昔の、水』
突然、笛が一段と高く鳴った。
僕は、はっとして空を仰いだ。
それは、広く響き渡っていくというより、さらに上へ上へと昇っていく音だ。まるで宇宙へ発射されたロケットのように、笛は遠ざかっていくほど――それはその音が小さくなっていくことでもある――勢いを増していった。
こんなふうに聴こえたことは、今まで一度もなかった。笛はいつだって、この街から出ていこうとはしなかったから。
行かないで。
僕は思わず、空へと手を伸ばしていた。その手は何をつかんでいいのかわからず、まぬけに空を切った。そのさなかにも、笛はどんどん遠ざかっていく。追いかけたくなったけど、この街で生まれてこの街でしか生きられない僕が、よその街の人だって入ったことのない宇宙へ行けるはずがなかった。
僕は、すぐそこにある住宅街に血走った目を走らせた。誰かが出てくるどころか、どの窓も真っ暗なまま静まり返っている。
どうして誰も出てこないんだろう。この街の名物である笛が、いなくなろうとしているのに。
いや、と僕は思う。
街の人たちにとって、笛はすでにいないようなものなんだ。
その耳に届いていたとしても、その音を聴こうとしなければ、奏でられていないのと同じなんだ。笛のことのよりも、次の日に隣の街へ出かけることの方が、よっぽど大切なんだ。街の人たちは、笛に呼び止められて、それになびくほど子どもじゃないんだ。足を止めているのは、僕だけだ。
笛はもう、ほとんど聴こえなくなっている。街の人たちも、辺りにはいない。僕だけが、街にとり残されてしまったみたいだ。
わかることと、感じることは違う。僕は昔から変わらないその響きを、今でも求めている。決して変わることのないものが、ひとつでもほしいと思っていた。それを求め続けていいのかわからないまま、見た目だけ大人になってしまった。
そして、世界は転調する。
『上へ、上へ』
一瞬の静寂が、全てのきっかけを生んだ。
風の流れが逆向きになり、追い風が向かい風になる。どこにも向けられていない手は、清流の流れをせき止めているように、風の形を感じている。
額に張りついていた前髪がふわりと舞い上がり、僕の顔を上げさせる。
僕はそれを見た。銀河のような、それを。
ずっと僕に語りかけていたことばたちが、空でまたたいている。
無数だと思っていたことばは、さらに数えきれないほどの音へと分かれ、まっくらな夜に広がっていく。
水滴と水滴が出会うと一つになるように、音と音が出会うと、ひとつの新しいことばが生まれた。
生まれたことばは他のことばを見つけると、その手をとって、小声で何かをささやきながら体を重ねあわせる。体を探っていくうちに、どちらがどちらの体なのかわからなくなり、自分がどちらだったのかわからなくなり、気が付くと、そこには詩があった。
それらは自重によってその場にとどまれなくなり、少しずつ勢いを増しながら――夜を引っ掻きながら――遥か彼方へと流れていく。えぐられたその痕から、水滴のように光がこぼれ落ちる。幾つもの掻き傷が幾重にも重なり、層になっていく。
ことばだけじゃない。
風の遊びも、葉と葉が擦れ合うのも、全てが層になっている。
指で一つ、二つとたどっていくのも間に合わないくらい、層はどんどん積み重なっていき、厚みを増していく。
やがて、それらはさかい目がなくなり、層とは呼べなくなり、少しずつ丸みをおびていく。ひとつになったそれは、強い風を起こしながら、とてつもない大きさの球となり、その場でゆっくり回り始めた。
自転し始めた。
それは、まるで月によく似た――。
これは、星だ。
僕が感じていたものの全てだ。
全てがまたたき、輝いている。
文字どおり命を燃やしつくす、全ての星が。
全てが溶け合ったら、ひとつになる。
ひとつになったら、何になる?
星から、何かが聴こえる。
笛じゃない。これは歌だ。
でたらめだと思っていたことばが、歌になっている。
目をつむると、歌はよりはっきり聴こえた。
何にも縛られない、どこまでも自由な歌。
僕が、そうなりたいと思っていたような歌。
歌は、僕にそっと語りかけてくる。
僕は、全部覚えている。
ことばは、全部忘れていたはずだった。そう思っていた。
でも、僕はこの歌を口ずさめる。
くちびるが、そのことばをたどっている。
全部、覚えている。
歌は、僕にたくさんのことを思い出させた。
子どものままの自分を、ずっと守ってきたこと。
自分の夢を大人たちに壊されないように、必死で守ってきたこと。
凪いでいた僕の人生が、少しずつふくらんでいく。
ふいに、爪先が何かに当たって、かつんと音を立てた。目をつむったままつま先で探ってみると、どうやらステップになっているようだった。
一段だけ上ってみると、また爪先が次のステップに当たった。僕は一段、また一段と上ってみた。それでも、まだまだ先があるようだ。
瞼を透かす光を頼りに、僕は上り続けた。上っていく度に光はだんだん強くなり、辺りに響き渡る歌は、その色を変えていった。
しばらくすると、歌に合わせて、かすかに聞こえるものがあることに気が付いた。
僕は、おもわず足を止めていた。それは、ずっと僕の光だった。
笛が聴こえる。
笛は、ここまで昇っていたんだ。ここで、僕を待ってくれていたんだ。
僕は疲れていたことも忘れて、一気にステップをかけ上った。笛は、たしかにそこにいることを知らせるように、ささやかなファンファーレを奏でる。
僕は、笑っていた。ファンファーレに応えるように、高らかに笑っていた。
笛は遠ざかったり近づいたり、まるで僕とたわれるように動いている。もしかしたら、僕の方がそんなふうに動いているのかもしれない。
笛をワルツに誘いながら、空よりもっと高いところを目指して上っていく。ずいぶん軽くなった体で――まるで子どもに戻ったような軽さで――ステップをかけ上っていく。
笛と自分のさかい目がどんどん溶けていく。憧れていたものと、ひとつになっていく。 僕はずっとこれを望んでいたんだ。
涙が、こぼれた。
目をつむっているのか開けているのかわからないくらい、光が目の前に満ちている。笛が最後のフレーズを吹き終えるのがわかる。あと少しだ。
僕は、観客でも奏者でもない。ただそこにあるべきものとして、僕はいる。熱を失うことなく、そこにあり続ける。
僕は、その場所へかえっていく。
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