月に成る子ども(1/2)
この街では、月が満ちては欠ける夜半に、笛の音が聞こえる。
奏者が自分の存在を強調するように、その音はどこまでも伸びていく。夜にはない影の代わりに、この街を通り越してどこまでも。
初めてそれを耳にしたのは、小学校に上がったばかりの頃。
当時は地元のニュースに取り上げられるほど、その現象は注目された。月夜になると、たくさんの人が外へ出ていき、だれもが耳をすませていたのを覚えている。人で溢れ返っていたのに、街はしんと静まり返っていた。
笛の音は、今でもきれいだ。
でも、毎晩のように街に流れているから、夜中の人の往来は少しずつ途切れていき、また元のありふれた街となった。
いくら出処がわからないものでも、耳になじんでしまえば――そして害がないのであれば――気にかける人はいなくなる。
空が翳れば、雨が降る。それと同じことなんだと。もしくは、廃れた風物詩のひとつとして。
僕も他の人達と同じように、月夜にはその音が聞こえる。
その音が笛のものであることを、ちゃんと知っている。
でも僕にはそれが、ことばに聞こえる。
『をする、曇り、青、息いへ、と形』
初めて笛が聞こえたときから、ずっとそうだった。
それは確かに音ではあるけど、僕にとっては同時にことばでもあった。
そのことばが全くのでたらめだから、そのときに何を言っていたのかは、すぐに忘れてしまう。まるで自分にしかわからない暗号みたいで、幼い頃の僕をときめかせたけど。
子どもの頃は、夜更けになると家をこっそり抜け出し、人目のつかない空き地へと急いだ。長らく手が入っていないおかげで、子どもが一人でかくれんぼをするには丁度よかった。ここなら、誰にも見つからない。
そして僕は、僕の元へ降りてくるはずの音を、じっと待っていた。
『に呼ぶ、光、友の、を誘い、瞳は』
今では珍しくないその音に熱心なのは、僕だけだ。
まだそんなものに熱を入れているのかと、よく言われる。当たり前のようにそこにあるのに、というのが誰かの言い分。それでいいじゃないかと、思うけど。
『追う、と静、霞、そのたび、の方へ』
そんな僕も、今では成人している。
夜中でも、こっそりしなくても外へ出られるようになった。たとえ誰かに出くわしたとしても、小言を言われることはない。もう大人だから。少なくとも、見かけだけは。
子どもの頃に夢中になったものを未だに抱えている僕は、子どもだろうか。他の人たちは大人になったら、何に夢中になっていたのかを忘れてしまうみたいだ。もともと、そんなものなんて無かったみたいに。それが、大人になることだろうか。それじゃあ、やっぱり僕は子どものままなんだろうか。
『いいよ、へ行き、帰る、花』
そういえば、と思う。
昔は、笛がことばに聞こえると言いふらしても、周りの大人たちは微笑ましく肯いてくれた。そんなとき、僕はうれしくて、もっと得意になった。
大人たちは僕を信じてくれたんじゃなく、その優しいまなざしは、わけのわからないことを言い出した僕をなだめるための気休めにすぎなかったことは、成長してからわかった。
自分にしか聞こえないことは特別なことで、僕が成長すればするほど、それは少しずつ異常になっていった。
『遠く、と踊る、が叫び、私、どこ』
成人してから、しばらくが経った。
ひさしぶりに会った昔の友人は、髭が似合っていて驚いた。幼い頃、月夜だけは自分の秘密基地になった空き地には、老人ホームが建てられていた。
僕が変わらなくても、周りのささいなことは確実に変わっていた。
笛だけは変わらず、月夜になる度僕に語りかけていた。笛が僕に何を言おうとしているのかは、わからないままだ。本当は僕がそう思っているだけで、笛は何も言おうとなんてしていないかもしれない。それは僕にとって悲しいことだから、考えないようにしてるけど。
ときどき、その日のことばはその日で完結しているんじゃなく、笛を初めて聞いたときから今に至るまで、ひとつのことを少しずつ発しているんじゃないかと、思うことがある。もしそうだとしたら、僕はそのひとつを永遠に完成させることはできない。
今まで聞いてきたものは、全て取りこぼしてきたから。その日に耳にしたことばでさえ、音が止んだ瞬間に覚えていられなくなるから。
この街にも変わったところはあるけど、0時を過ぎれば人の往来が完全に無くなるところは同じだ。少なかった人口が、昔よりさらに減ったのもある。この時間にこの街で唯一目を覚ましている人間として、僕は外でふらふらしていた。
今日は丁度満月だ。雲の形がはっきりわかるほど、空は明るい。月が満ちるほど、笛はより響く。奏者がすぐそばにいる気さえする。
昔の秘密基地はとっくに無くなっていて、かといって他に落ち着ける場所は見つからなくて、僕はただ歩き続けていた。どこをどう歩いても、顔を上げれば月はすぐに見つかった。
街の広さなんて、たかが知れている。夜通しになる前に、この街の全ての道も道じゃないところも、歩きつくしていた。僕は汗ひとつかいていなかった。笛に導かれているつもりだったけど、僕はどこにも行けていなかった。月は、僕をどこへも導いていなかった。
『に開く、灯り、事を、便り』
大人になりきれていないことは、いくら装っていてもばれてしまうものらしい。だから、大人になれ、なんてよく言われる。
僕がずっと惹かれているものは、全て夢の類なんだと。そういうものは、大人になれば捨ててしまわないといけないんだと。子どものままの僕は、どうして、と思った。
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