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月に成る子ども(2/2)
『を呼ぶ、人、昔の、水』
突然、笛が一段と高く鳴った。
僕は、はっとして空をあおいだ。
それは、広く響きわたっていくというより、さらに上へ上へと昇っていく音だ。まるで宇宙へ発射されたロケットのように、笛は遠ざかっていくほど――それはその音が小さくなっていくことでもある――勢いを増していった。
こんなふうに聞こえたことは、今まで一度もなかった。笛はいつだって、この街から出ていこうとはしなかったから。
いかないで。
僕はおもわず、空へと手を伸ばしていた。その手は何をつかんでいいのかわからず、まぬけに空を切った。そのさなかにも、笛はどんどん遠ざかっていく。追いかけたくなったけど、この街で生まれてこの街でしか生きられない僕が、よその街の人だって入ったことのない宇宙へ行けるはずがなかった。
僕は、すぐそこにある住宅街に血走った目を走らせた。誰かが出てくるどころか、どの窓もまっくらなまま静まり返っている。
どうして誰も出てこないんだろう。この街の名物である笛が、いなくなろうとしているのに。
いや、と僕は思う。
街の人たちにとって、笛はすでにいないようなものなんだ。
その耳に届いていたとしても、その音を聞こうとしなければ、奏でられていないのと同じなんだ。笛のことのよりも、次の日に隣の街へ出かけることの方が、よっぽど大切なんだ。街の人たちは、笛に呼び止められて、それになびくほど子どもじゃないんだ。足を止めているのは、僕だけだ。
笛はもう、ほとんど聞こえなくなっている。街の人たちも、辺りにはいない。僕だけが、街にとり残されてしまったみたいだ。
わかることと、感じることは違う。僕は昔から変わらないその響きを、今でも求めている。決して変わることのないものが、ひとつでもほしいと思っていた。それを求め続けていいのかわからないまま、見た目だけ大人になってしまった。
そして、世界は転調する。
『上へ、上へ』
一瞬の静寂が、全てのきっかけを生んだ。
風の流れが逆向きになり、追い風が向かい風になる。どこにも向けられていない手は、清流の流れをせき止めているように、風の形を感じている。
額に張りついていた前髪がふわりと舞い上がり、僕の顔を上げさせる。
僕はそれを見た。銀河のような、それを。
ずっと僕に語りかけていたことばたちが、空でまたたいている。
無数だと思っていたことばは、さらに数えきれないほどの音へと分かれ、まっくらな夜に広がっていく。
水滴と水滴が出会うとひとつになるように、音と音が出会うと、ひとつの新しいことばが生まれた。
生まれたことばは他のことばを見つけると、その手をとって、小声で何かをささやきながら体を重ねあわせる。体を探っていくうちに、どちらがどちらの体なのかわからなくなり、自分がどちらだったのかわからなくなり、気が付くと、そこには詩があった。
それらは自重によってその場にとどまれなくなり、少しずつ勢いを増しながら――夜を引っかきながら――はるか彼方へと流れていく。えぐられたその痕から、水滴のように光がこぼれ落ちる。いくつものかき傷が幾重にも重なり、層になっていく。
ことばだけじゃない。
風の遊びも、葉と葉が擦れ合うのも、全てが層になっている。
指でひとつ、ふたつとたどっていくのも間に合わないくらい、層はどんどん積み重なっていき、厚みを増していく。
やがて、それらはさかい目がなくなり、層とは呼べなくなり、少しずつ丸みをおびていく。ひとつになったそれは、強い風を起こしながら、とてつもない大きさの球となり、その場でゆっくり回り始めた。
自転し始めた。
それは、まるで月によく似た――。
これは、星だ。
僕が感じていたものの全てだ。
全てがまたたき、輝いている。
文字どおり命を燃やしつくす、全ての星が。
全てが溶け合ったら、ひとつになる。
ひとつになったら、何になる?
星から、何かが聞こえる。
笛、じゃない。でも、僕が今まで耳にしてきたものでもある。
でたらめだと思っていたことばが、歌になっている。
目をつむると、歌はよりはっきり聞こえた。
何にも縛られない、どこまでも自由な歌。
僕が、そうなりたいと思っていたような歌。
歌は、僕にそっと語りかけてくる。
僕は、全部覚えている。
ことばは、全部忘れていたはずだった。そう思っていた。
でも、僕はこの歌を口ずさめる。
くちびるが、そのことばをたどっている。
全部、覚えている。
歌は、僕にたくさんのことを思い出させた。
子どものままの自分を、ずっと守ってきたこと。
自分の夢を大人たちに壊されないように、必死で守ってきたこと。
凪いでいた僕の人生が、少しずつふくらんでいく。
ふいに、つま先が何かに当たって、かつんと音を立てた。目をつむったままつま先で探ってみると、どうやらステップになっているようだった。
一段だけ上ってみると、またつま先が次のステップに当たった。僕は一段、また一段と上ってみた。それでも、まだまだ先があるようだ。
まぶたを透かす光をたよりに、僕は上り続けた。上っていく度に光はだんだん強くなり、辺りに響きわたる歌は、その色を変えていった。
しばらくすると、歌に合わせて、かすかに聞こえるものがあることに気が付いた。
僕は、おもわず足を止めていた。それは、ずっと僕の光だった。
笛が聞こえる。
笛は、ここまで昇っていたんだ。ここで、僕を待ってくれていたんだ。
僕は疲れていたことも忘れて、一気にステップをかけ上った。笛は、たしかにそこにいることを知らせるように、ささやかなファンファーレを奏でる。
僕は、笑っていた。ファンファーレに応えるように、高らかに笑っていた。
笛は遠ざかったり近づいたり、まるで僕とたわれるように動いている。もしかしたら、僕の方がそんなふうに動いているのかもしれない。
笛をワルツに誘いながら、空よりもっと高いところを目指して上っていく。ずいぶん軽くなった体で――まるで子どもに戻ったような軽さで――ステップをかけ上っていく。
笛と自分のさかい目がどんどん溶けていく。憧れていたものと、ひとつになっていく。 僕はずっとこれを望んでいたんだ。
涙が、こぼれた。
目をつむっているのか開けているのかわからないくらい、光が目の前に満ちている。笛が最後のフレーズを吹き終えるのがわかる。あと少しだ。
僕は、観客でも奏者でもない。ただそこにあるべきものとして、僕はいる。熱を失うことなく、そこにあり続ける。
僕は、その場所へかえっていく。
おわり。
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