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咲かざる者たちよ(第十五話)


 小筆を洗い終えた喜多山は、洗面台に残る微かな藍色をそっと指先でなぞっていた。その日、彼は朝の柔らかな光を浴びながら、手際よく支度を整え、心躍らせながら花屋への道を急いだ。

 -九時二十四分。「(まだ花屋は開いていないだろう。)」喜多山はそう思うと、手帳に藍色を施した花の絵を何度も確認した。

 -九時三十分。「(このアパートから花屋まではせいぜい七分の距離だ。花屋ではもう今頃あの店員が開店準備をしているに違いない。)」時間を追うごとに、喜多山の心は花屋への期待で高鳴っていた。

 -九時四十一分。喜多山はもう一度一階まで階段を降りて、花の前で手帳を開いた。すると、以前に比べて花の丈が少し高くなっていることに気がついた。小さく藍色がかっていた一番大きな頂上の蕾にはより一層濃い色を示し、二つ目の蕾はまだ全体的に緑に見えるが先端がうっすらと藍色に染まっていた。喜多山は少し手帳の絵に手を加えようと急いで部屋へ戻った。干していた小筆を手に取り、さっき洗ったばかりの筆先に、水に解いた藍色の絵の具を馴染ませゆっくりと色をつけた。

 -手帳に描き足した花の絵を眺めていると、ふと我に返り、あの花屋の女性店員のことを思い出した。気がつけば時計は十時十五分に差し掛かろうとしていた。喜多山はすぐに洗面台で小筆を洗い、薄い藍色の飛沫が洗面台を汚すことなど気にならない程に急いで部屋を後にした。

 -十時二十分。駆け足で到着した花屋の前で喜多山はただ息を荒くさせて花屋の扉にある「定休日」と書かれた洒落た看板を見ると、その場で三、四周ぐるぐると小さく回り息を整えながら、喜多山の心には落胆が広がっていた。引かない汗を拭い花屋の窓から中を覗き込むと、まるで眠りについているように静かな店内が見えた。電気は点いておらずショーケースの中に咲く花々も今日はいつもより主張を抑えて佇んでいるように見えた。しかしそれ以上に喜多山には、手帳に描いたあの一輪の花に感じるものが、そのショーケースに入ったどの花にも感じられないことに気がついた。喜多山はまた手帳に描いた絵を確かめるように見て、小さく頷いてポケットにしまい、手で顔を扇ぎながら商店街へと向かった。

 祖母とよく一緒に休憩した石段は、日陰になって周囲よりも少し気温が低くなっていた。喜多山は腰掛けて商店街で買った烏賊焼きを食べながら、あの花屋の店員を思い出していた。それはほんの短い間だったが、それで十分だった。喜多山は、鉢を抱え落ち着いた様子で仕事をする彼女の姿や、こちらへと近づいてくる時に見せた狭いレジカウンターを大きく周って出てこちらへやって来るまでの細かい所作の全てをなぞるように思い出していた。
 烏賊焼きを咀嚼していた筈の口の動きが無意識のうちに止まっていることに気がついた喜多山は、鼻で少し大きく息を吸いながら周りをきょろきょろとしながら再び咀嚼した。

 喜多山は手帳に描いた絵の次のページを開けて折り目をつけると新しいページの上部に大きく「日記」と書いた。喜多山はこれまで書き記した遺書の代わりである、幼少期から現在に至るまでの記録に続きを書き始めた。
『自宅前に一輪花を見つける。それは大変美しい藍色に蕾み、たった一輪堂々と揺れていた。花屋の店員にその花の名を聞きくために前ページにその花の絵を描いた。ちゃんとわかってくれるといいが。』綴ったその続きに『あの店員さんは幾つだろうか。』と書いたが、すぐにその一文は黒く塗りつぶした。

 しばらくぼうっと手帳を開けていると、天気予報通りの強い風がページをめくりあげた。喜多山は慌てて手帳を押さえつけた拍子に、「祖母の葬式」という文字が喜多山の目に入った。喜多山は、はっとするようにそのページを見た。この世界で喜多山のことなど誰一人として知らず、誰とも繋がりがなく、死ぬことで辛い現実から解放されようとするも、死にきれなかった。あらゆる命に寛容であり、終着点である筈の死の世界、唯一の希望であった死からも拒絶されてしまった喜多山は、自分自身をただ不幸だと信じてやめなかった。かつて喜多山は、自分の過去をこの手帳に記すことにより、自分がこの世に生きた証を遺し、そして最後に自死することが自分へ残された唯一の道だと思っていた。
 しかしそんな喜多山の世界に突如として、孤独に揺れる一輪花と、花屋の美しい女性店員が現れ喜多山の思考を大きく変えていた。

 喜多山はアパートへ戻る間際、再び道端に咲く花の前で立ち止まった。その茎は空へ向かって伸び、まだほんのりとしか表れていない花弁の藍色はかくも美しかった。少しして明日も必ず花屋へ行くと心に固く誓い、階段を上がり部屋へ向かった。その瞬間、猛烈な吐き気が喜多山を襲い、階段いっぱいに吐しゃ物を吐き出した。数年前より、この突如としてやってくる抑えの効かない吐き気に悩まされていた。その時なぜか喜多山の脳裏には花屋の店員がよぎり、せめて明日までは生きたいと思った。

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