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咲かざる者たちよ(第七話)


 多々良が帰った部屋には夜風が吹き通った。喜多山は身体を震わせ、冷え切った空気に混じって白い息を漏らしながら、声もなく深く泣いていた。少しして、CDプレイヤーを止めると、無慈悲に響き渡る列車の轟音が喜多山の耳を打ち鳴らした。部屋は荒れ果てていた。喜多山は瓦礫と化したクローゼットの中から、その夜食べるつもりだった潰れたパンを取り出して、立ったまま食べた。喜多山は多々良に対する憎しみを抑えるのに精一杯だった。

 次の日、これまでのように学校で皆を笑わせていた多々良とは打って変わって、黙り込んだまま両手の傷を抑えていた。心配した友達が何人か、「あの傷は一体どうしたんだい?」と喜多山に聞いたが、喜多山は答えなかった。すると多々良が遠くから「うるさいな!何もないよ!大丈夫だから!」と少し強く言った。友達はあの多々良が急に口調が強くなったことに困惑してどこかへ行ってしまった。たまたま通り掛かった養護教諭がその一連を見つめていた。

 帰り道は離れて歩いた。喜多山は、多々良といつも別れる細い路地で、「もう、僕の家には来ないでくれ。」と目を見ずに多々良へ言った。多々良は黙って帰った。
 喜多山は靴のまま荒れ果てた部屋に足を踏み入れた。ガラス片や折れた木が床を覆い、パキパキと不吉な音を立てながら、布団までの道を歩み、立ったままパンとおにぎりを食べた。喜多山は、多々良に対する憎悪により、もう母の帰りなど待っていなかった。喜多山はそのまま布団に横になり、少し休んだ。ここ数日間、まともに寝れていなかったため布団に潜り込み、そのまま夜まで眠った。

 午前四時十六分。喜多山は物音で目を覚ました。この日ばかりは一瞬たりとも、「母かもしれない」とは思わなかった。喜多山はすぐに、「多々良君かい?」と言って暗闇で目を凝らした。すると暗闇の中で、「そう言われればそうだ。」という声が聞こえた。喜多山は理解ができず首を傾げ、「その声、多々良君じゃあないか、どうしてまた来るんだい。僕の家を散々めちゃくちゃにしておいて。」と強く言うと、「僕は君だよ。」と聞こえた。「何言っているんだい。多々良君なんだろ?顔を見せてみてよ。」少し不安げに喜多山は言った。すると、多々良は暗い玄関からゆっくり現れ、「僕は多々良であり、喜多山君でもあるんだよ。そして君も喜多山君であり、多々良でもあるんだ。」と言った。

 多々良は、困惑して布団から起き上がったまま固まっている喜多山を見ずに、軍手をした手でせっせと青いポリタンクを玄関から運んでいた。部屋の壁や窓に沿って一直線に、そのポリタンクからドボドボと音を立てながら液体を撒いていた。
 喜多山は何が何だかわからず電気をつけようとしたが、蛍光灯は壊れていて点かなかった。キッチンの青白い小さな電気をつけようと布団から立ち上がった瞬間、鼻をつくような臭いにくらくらした。慌ててキッチンへ行き、電気をつけると、多々良が撒いた液体で部屋中が水浸しになっているのがぼんやりと照らされた。
「多々良君…何してるんだい…。」と尋ねたが、喜多山の問いには答えなかった。
 しかし喜多山は、多々良の行動と臭いから何となく状況を察し、居ても立っても居られなくなった。
 「何しているんだいって聞いてるだろう!」と喜多山は初めて多々良の頬を力一杯殴った。喜多山の拳は震えていた。しかし多々良は何も言わずにむくりと起き上がり、全身液体にまみれながらまたポリタンクから液体を撒き始めた。
 喜多山は、「もう止めるんだ!多々良!」と多々良の首に掴み掛かった。すると多々良はそれに抵抗しながら、「全て燃やしてしまおう。全て無かったことにするんだ。僕も、君も、お母さんも。全部さ!」と言い、喜多山を突き飛ばしてポケットからライターを出してまた叫んだ。「僕が喜多山なんだよ!僕のような人間こそが喜多山でなければならなかったんだ!」
 その時の多々良の目には涙が浮かんでいた。
 喜多山は力を振り絞り、また力一杯多々良の頬を殴った。多々良が大きく転倒したその時、ライターから火があがり、多々良は瞬く間に全身を炎に包まれた。それとほぼ同時に家中に火の手が広がった。
 多々良はそこら中を転げ回っていた。
 喜多山はあわてて破れた窓から外へ飛び出そうとしたほんの一瞬、玄関にある赤いツヤのあるヒールが、部屋一面の炎を写し燃えているのを見た。


 多々良の阿鼻叫喚の断末魔を列車の轟音がかき消した。多々良は踊るように燃えていた。しかし列車の通過後、突然その姿は消えて見えなくなってしまい、燃え盛る渇いた音だけが暗闇に響き渡った。

 すでに家全体を業火が包み込んでいた。
 喜多山は自宅から少し遠ざかり座り込んだ。座ろうと地面に手をついたその時、自分の手に激痛が走った。喜多山は、ふと自分の手を見てみるとガラスによる切り傷から手首まで流血し、軍手の端には真っ赤な血が染みていた。
「そうか、本当に多々良は僕自身だったんだ。」
 喜多山は遠くに足音を聞いた。暗闇の向こうから養護教諭が走ってきていた。
 喜多山はなぜか心が落ち着いた。再び振り返り、炎を見たがやっぱり多々良はいなくなっていた。心が少し軽くなった。

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