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『推し、燃ゆ』

3年間ずっと名前しか知らなかったから、推しが炎上した話、主人公の「推し」と取り巻く環境を書き手が紐解くお話だとずっと勘違いしていた。
実際は、ぜんぶ書き手の話だった。書き手にとって「推し」はまさしく背骨、書き手の中枢だった。

「推し」の炎上から卒業に至るまで、あかり(書き手)は「推し」の変化に気づきながらも愛していることは変わらないから、と盲目的な愛をやめない。
あかりはほとんど推しのために退学し、仕事も覚えられないバイトでなんとか推しに貢ぐ生活を送る。その中で、病名は伏せられているが、発達障害(ADHD・ASD)であることが暗に描写されている。

また、家族との関係も険悪で、発達障害の理解を示すことができない家族へ愛着障害を抱えていることも推察できる。

あかりは卒業コンサートで、大人になんてなりたくないと言っていた「推し」が大人になったのだと知る。そして、同時に「推し」は人になった。
もう、それはあかりには到底手の触れられない場所だった。

綿棒を自分の背骨(=推し)に見立てて放り投げる。散らばった背骨たちを拾う。『這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。』
18歳が背負うにしては、あまりにも重すぎる業。
大人にもなれない。ぐちゃぐちゃになった背骨。
希望とも受け取れないようなあかりの退廃的な言葉・廃れた精神は、現代の太宰治のようだった。

文庫版あとがき・解説(金原ひとみ)もこの作品を読み解く上でひとつも外してはならない名文。
あとがきの中で文体の変化について記したことが衝撃的だった。「言い切れるか」それだけであかりの変化を示すことができるのか、と。
言葉は人から借りて戦わせて、強くなったと感じるものではないというフレーズがずっと頭を廻っている。

人は「推し」とどのように関わるべきなのか。
そして、発達障害の息苦しさを問いかける本でもある。

この時代に「推し活」と「発達障害・愛着障害」の2つをテーマに彼女の退廃を描くこと。
これぞ現代であり、これぞ純文学です。
芥川賞にふさわしい名作でした。

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