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両親のこと(膠原病と家庭不和と) *17


今回は、とても不快になる内容があると思います。
特に親のことについてトラウマがある方は、読まないでください。



10歳で膠原病(リウマチ)を発症した私。

35年以上も前、今のように情報もなく、薬もなく、治療法も確立されていない病気を患った子どもを抱えて、どんなに大変だったろうと、あの頃の親と同じくらいの歳になって、より実感しています。

母(専業主婦)は毎週のように私を病院に連れて行き、父(会社員)は何かあると仕事を休んで私に付き添いました。
あの頃は、"子どもの事で父親が仕事を休むなんてありえない" という時代だったから、ちゃんと職場で理解されていたのかな? きっと出世コースからも外れてしまったんだろうな。
よく家で、持ち帰った仕事をしていました。
実は、学校のキャンプや修学旅行に、父が付いて来ていたと知ったのは後のことです。
学校と相談して、何かあった時のために近くのホテルで待機していたとのこと。
そんな事も知らず、私は実行委員までしたり、「みんなと一緒にできてる!」と意気揚々でしたね。

病気に効くと聞けば、銭湯の電気風呂に連れて行ったり、日本酒をお風呂に入れてみたり、週末には一緒にニンニクを食べてみたり、こわばる私の手を温めた方がいいのか、腫れた関節を冷やした方がいいのか試行錯誤し、変形してゆく指を伸ばすためにマッサージし、少しでも持ちやすく軽い通学用の鞄を探し。

炎症がヒドくて痛みで眠れず泣く私の身体を、
二人で一晩中さすってくれたこともありました。
朝になるのを待って、そのまま大学病院へ担ぎ込まれたことも。
覚えています。

小学生ならもう、親に負担をかけていることを、よくわかっていました。
私のためにしてくれたことには、感謝しています。
ありがたいと思います。


ただ、考え方の全く違う両親は喧嘩が絶えず、言い争いと無視の繰り返しで、家庭の雰囲気は良くありませんでした。

両親のすれ違いは、私が病気になる前からだと思います。それが私の病気で拍車がかかったのかもしれません。


母のこと

母からよく言われていたこと
「あなたたちが二十歳になったら出てゆくから」

母は世間体が何より大切で、私の気持ちには寄り添ってくれなかった。
わかってもらいたいと、泣いてどれだけ言葉を尽くして訴えても、話し合おうとしてくれず、あげく「わからない」と一蹴。
「親に向かって何を言う!」と手を上げられたことは何度も。

激昂すると曲がった私の指を「カマキリ」と言った母。

身体がツラくて学校を休みたいと言えば
「どうして行ってくれないの!」と不機嫌になり、私は理解してもらえない悲しみと罪悪感で、寝ていても休まらず。


母には『病気だけど、勉強ができて、明るい』と言われる私じゃなきゃ価値がなかった。

高校選びの時、課題が多くてついてゆくのが大変という8km離れた進学校ではなく、ランクを落として家からも近い高校に行き、余裕を持って高校生活を送りたい、と相談しても、進学校をゆずらなかった母。
“進学校の制服を着て家を出る私” じゃなきゃダメだった。
高校進学後、病気が進行して、やはり課題がこなせず、どんどん成績がマイナスされると
「そんな学校だなんて知らなかった」と。
あんなにあんなに「課題が大変らしい。ついていけないかもしれない」と訴えたのに、私の話を何も聞いてはいなかったということ?
病気が進行し、精神的にもボロボロになって高校を休学したいと言うと
「あんたは周りから、かわいそうと思われたいのか!」と言い放った母。

私は勉強しかないと言われ続けていたから、必死でやっていました。
中学生の頃から、夜中2時までとか。
母は、私が寝ないように私のベッドで寝て(起きていたかもしれませんが)、私が勉強を終えると自分の寝室に行く、というようなこともしていました。
でも、母が納得する成績をキープできていたのは、高校1年生まででした。

そして、大学受験に失敗し(そもそも受験できるような状態ではなく。心も身体も)滑り止めの私立大学への進学が決まって、入学式のスーツが欲しいと言ったら
「バカにスーツはいらない」と言った母。

母親だから、私のことを理解してくれるだろうと期待しては裏切られることの繰り返し。
病気との闘いに加えて、日々、母とも闘っていました。


父のこと

一方、父とは
「大学に行きたいのなら、進学校の方が安心なんじゃないか」(母親も納得するだろうし)
と話し合い、高校を決めて

課題がこなせなくなった時は、課題をやらなくてもいいように学校と交渉してくれ
「これから1週間に1日休んでも、卒業できるとのことだ」(休学するより卒業してしまったほうがいいかも)
ということで、折り合いをつけて(母親のせいでほとんど休めませんでしたが)結局、大学受験までしました。

父も母を変えようと、毎日のように話しをしていましたが、母の態度はいつも一緒でした。
ずっと黙って、話し合いをしようとしない。
最後に「わからない」と言うのです。

子ども心に「この人はダメだ。母親になるべき人じゃなかった」と思っていました。

でも、病院に行くにも母に頼るしかなくて。
母は周りから認めてもらえることには熱心なため、私を毎週のようにリハビリや治療に連れて行き。
家事は、ほぼ完璧で。
家とは違い、外ではニコニコしているから、面白いお母さんだね、って言われて。


母の言う「大学さえ行ってくれれば」がゴールだと思って、
母の望む国立大学へ行ければ、見返せるし、家から出られると思って、耐えていたら

私が家を出るより先に、母が出ていきました。

突然、唐突に。
私がその頃の状況をよく覚えていないだけかもしれませんが。

私が大学に入学した直後くらいだったと記憶しています。
弟は高校生。

それから一度も母とは会っていません。
今、生きているのか死んでいるのかも知りません。
知りたくもない。


母の事を昇華するのに、とてもとても時間がかかってしまいました。
母の事を思い出しても、やっと気持ちが波立たなくなりました。
思い出しても、口にしても、文章にしても、大丈夫になった自分を心からよかったと思えます。

ただ、40代になった今も、弟は引きずっているようです。


ここのところ「毒母」や「親ガチャ」などと話題にもなり
「ああ、やっぱり正しい親ばかりではないんだ」「親を憎んでいたことを隠さなくてもいいんだ」
と、またラクになりました。


あの人と過ごした時間より、倍以上の時間が過ぎ
てもずっと苦しいままだったけれど、


やっと、過去のこと、終わったこと、と思えるようになりました。



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