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自分につながる難しさ~知った時の感動

自己評価の本を読んでいる。
背中がガチガチに硬くなる。
自分の長所短所だけでなく、
何を感じているかもよくわからない時がまだある。

「あなたはこんな人」と言ってもらいたくて、いろんな占い系を見てきた。
自分の外から、長所と短所、どんな人でかを教えてもらいたかった。
ただ、何をどう感じているかはわかっていると思っていた。

幼稚園〜小学低学年の幼い頃、ワガママだと言われてから好き嫌いや思ったことを口にしてはいけないと学んできた。
それでも、わがままや自意識過剰と指差されることは多かった。
「あれがいい、こうしたい」「これはいやだ、やりたくない」という主張は多かったし、
納得しない時は、無視や脱走していた。
なので、自分の感情に繋がってないとは夢にも思わなかった。

カウンセリングをいくつか受けたが、心のブロックが強いのか、皆に途中で「もう来なくていいですよ」と言われた。

自分が理屈っぽい自覚は多分にある。
しかも、「こうあるべき」が非常に強く、思った通りの性格判断でない場合は、「それは違うな」と否定が強かった。

今なら、「自分が前に出たい」という言葉は、本意ではないが納得する。
本音は「目立ちたいというより、そっちの方がスムーズに事が運ぶよね?」だったりはするが。
以前は、「そんなはずはない!こんなに目立ちたくないと思っているのに!」と拒否していた。

「べき」が強くて、自分にも他人にもかなり厳しい目を向けていた。
今も癖は残っている。
しかも、それに気づいていない。
「べき」が先に立ちすぎて、自分の感情に蓋をする。
これは、生きていくうえでかなりキツい。
ドMの所業。

だんだんと無理がたたり、最終的に体調を崩して所謂「コース」をドロップアウト。
「こうあらねば」「これがかっこいい生き方」に囚われて、必死で皆と同じように仕事してきた。
体力的にも、性格的にも、ムリゲーだったのに。

実はその少し前から、仏教、座禅、写経、yoga、 vedānta、オープンダイアローグ、NVC、エニアグラムなどをかじり始めた。
今思えば、限界→変化のタイミングだったんだろう。

Yogaとvedāntaは、今でも出会ってよかったと思っている。
生きる指針になっている。
そして、頭ばかり動かす自分にとっては、呼吸とともに動きをつくるashtānga vinyasa yogaは、いろんな意味で大事。
Āsanaだけでなく、他の支則も大事。
食生活や生活リズムが大きく変わり、人生の中で今が一番体調がいい。
小学校時代よりも、もちろん高校・大学時代よりも。
すべて実践できるわけではなくて、サボったりやらかして大反省はあるけれど。
実践真っ最中。

写経、座禅も時々だが続いている。
仏教は興味深く学び続けたいとおもっている。
出会った写経講座の和尚様が非常に尊敬できる方なのも大きい。

自分の感情に気づくために、NVCの講座を受けた。
初めて奥底のニーズに繋がった時は、自分の必死の叫びに泣いた。
NVCは今でも学習中。
自分とつながる、自己共感ができて初めて人に共感ができる。
今まで自分をないがしろにしてきた身としては、
自分のための大事な癒しの手段。

しかし、まだまだ奮闘中。

友人との話。
あるイベント開催後、
「今どう思う?」と聞かれた。
「参加者が満足してくれてたらいいな」と答えた。
参加者がもう一度出たいと思ってくれたら、またやってもいいなと。
「周りのことは置いといて、『自分』はどう思った?
 楽しかった?つまらなかった?」

と聞き返された。

一瞬言葉に詰まった。

『自分』がどう感じたかを表現できなかった。

ひと呼吸置いて、やっと
楽しかった、またしたい
と答えられた。
涙が込み上げてきた。

これこそが自分の感情。
自分の感情を素直に出す」こと。
自分にはとてつもなく難しい。

「何が楽しかった?」
この質問も難しい。
NVCでいくと、満たされたニーズ。
友人はNVCを学んでないが、根気強く引き出してくれた。
「知ってもらう」「学び」「喜び」
そして「自己表現」

ああ、こんなに「自己表現」を求めていたんだなと。
このウン十年、まったく気にかけてなかった。
自分の中の、奥底のニーズ

このニーズを満たすための手段は、まだ模索中。

そして、自分の感情やニーズにつながり続けることも学習・実践中。
抑圧していては、自分に対してahiṃsāではないと思う。
自分とつながったうえで、納得して行動を起こしたいから。


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