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‟恋人がいないと幸せになれない”という呪いを、解くための一人旅。


「今年も、行けないな」




8月の中旬。
20代ラストイヤーを迎える9月の誕生日を目前に控えて、私は思っていた。


私には、毎年恒例のように、来年は絶対に彼氏と行く、と、決めているイベントがある。




熱海の海上花火。



初めてそれを見たのは、22歳の夏。
大学時代の女友達と、ふたりで熱海旅行に行ったとき。

その夜、夜空の真下で、落ちてきそうな火花を見つめながら、花火の爆破音と心臓の鼓動がくっついて、同じものになってしまって、離れなかった。

一瞬だけ夜空に咲く花が、体の全てに響いて、次々と消えていく。花火の儚さと、私たちの儚さが、まるで共鳴しているみたいで、夢心地だった。

それは、まるで、私がいつも誰かに夢中で恋い焦がれているときのように、心臓が締め付けられる感覚。


あの感覚が、私には衝撃的で、
「絶対に、大好きな人と一緒にこの花火を見に来る」という誓いを立てたのだ。






だけど、その誓いが叶わないまま、気付けば、6年もたってしまった。

毎年、狙ったように、そのタイミングで、一緒に行ける相手がいなかった。




彼氏がいたこともあったのだけど、付き合いたてで旅行に行くまで関係性が温まってなかったり、ニートで旅行に行くお金がない彼だったり、また他の元カレは、清潔なホテル(今考えるとそれって何だろう)か、自分の家でしか寝れないからと、私の家に遊びに来ても泊まらず帰っていくほどの潔癖だったりしたから、そもそも、私は彼氏と旅行というものをしたことがない。


うん。
悲しくなるから、その彼氏の潔癖は本当だったかなんて、深掘りするのはやめておく。



この6年間を思い返してみても、恋をしてない夏はない。


それなのに、なぜかどうしてか、タイミングが悪いのか、恋する相手が悪すぎるのか、はたまた私の運のせいなのか、もはやすべてが悪いのか、私は、自分の夢を叶えることができずにきた。



感動した夏から、行けない夏を気付けば5回も見送り、憧れ続けて、今年がきっと6回目の夏。

毎年積み重ねた憧れは、高い高い期待になって、今年も私をがっかりさせようとしてきた。

失恋したばかりだし、新たな出会いもないし、だから、「今年も、行けないな」と思った。

そう。
去年までは、そうやって、まるで、彼氏のいない私には、あの花火を味わう資格なんてないのだ、というようなエゴの声に引っかかって、まんまと、がっかりしてきた。





でも、今年は、去年までと違う私がいた。



「ひとりで、行っちゃえば?」




と、私は言った。


でも、すぐに、いやいや、と、言う、去年までの私。



事務職OL、東京で一人暮らし、でも自分の好きなことにお金を使いたい私の家計は毎月赤字のようなもので、旅行は、私にとっては、お金がかかるから最低限避けるべきものに分類されてきた。

だから、自分だけの旅行にお金を使うことに、抵抗する自分がいた。



だけど、今年の私は、言い聞かせた。


私がしたいことのためにお金が使えないのなら、何のために働いてるの?
私は、幸せに生きていくために、働いてるんじゃないの?と。


今年の私は、一味違った。



そんな自分の変化を目の当たりにして、もう、‟誰かがいないと幸せになれない私”を、やめてもいいのかもしれない、と思った。


あの日、花火に感動した22歳の私が、この事実を知ったら、どう思うだろうか。

すぐに叶うと思っていた、叶うことを疑うこともしなかった、純粋でいたいけな女子の「大好きな人と花火を見に行きたい」という夢が、毎年懲りずに、よくわからない男性とか、上手くいかないのにどうしようもなく好きになってしまう男性に恋い焦がれているせいで、6年経っても、まだ、叶ってないことを、悲しいと思うだろうか。絶望するだろうか。

私が、一緒に行ってくれる誰かの出現を待ちきれなくなって、ついにひとりで行こうとしていることを、強がってると思うだろうか。痛いと思うだろうか。寂しいと思うだろうか。



そもそも、一人旅、というものを否定するつもりは全くないし、これでも私は、けっこういろんなところにひとりで行くほうだ。

カラオケも牛丼屋もラーメンも焼肉もひとりで行くし、好きなアーティストのライブの遠征もひとりで行く。
いわゆる、寂しがりのひとり好きだ。

特に、ライブとかは、人がいると気になってしまって、目の前の感動に集中できないという本心もあって、ひとりで行くのが好きだ。
誰かと感動を分け合うことに何よりも喜びを感じられるタイプの人間に憧れる気持ちもあるし、昔よりもだいぶ変わってきたと思うけれど、ひとりが馴染んでいる本質は、きっと変わらないんだろう。

まあ、本当は、彼氏がいたら彼氏と行きたかったけれど、というか、そういう心の機微まで理解し合えるような関係性を彼氏と築いていたかったけれど、今はいないというのが事実なのだから、仕方ない。



だけど、そんな私も、いたいけに、
あの花火だけは、大切な人と見たいと願いつづけてきた。

恋愛至上主義の私からしたら、そういう場所には、そういう相手と行く必要があると思っていたし、ひとりで行く場所ではない、と、なぜか勝手に決めつけていた。
あの花火の感動だけは、あの心臓が締め付けられる感覚だけは、きっと、大好きな人と分け合ってこそ意味がある、と。


だけど、当時の予定とは反して、この6年間の間に、私は、何度も失恋して、もがいて、悩んで、傷ついて、それでも、愛を求めてきた。

そして、自分の寂しさを、少しづつ、愛せるようになってきた。
自分の寂しさを、誰かに埋めてもらうために恋をして、必死に愛してきたけれど、自分の寂しさに対して、そんな風に投げやりに扱うことをやめた。
この寂しさは私の宝物で、才能だと思えるようにもなった。


だから、今の私なら、きっと、自分を幸せにすることに、誰かの登場を待つのは、もう、やめられる。

恋愛が世界の全てだったからこそ、‟恋人がいないと幸せにはなれない”という呪いをかけたのは、他でもない、私。
それならば、その呪いを、解けるのも、他でもない、私。


私の幸せを、誰か、という、思い通りにいかないものに任せている場合ではない。
どこかで彷徨ってる気まぐれな王子を待っていたら、今年も花火が見られないまま、私の夏が終わってしまう。

来年の夏、花火が見に行ける体があるかなんて、誰にもわからない。
来年の夏、花火が見に行ける世界があるかなんて、保証されていない。

だから、もう、夏が終わっていくのを、ただ黙って見てるのはやめよう。
私の幸せが、今年も叶えられないことを、ただ黙って受け入れるのはやめよう。
そう思った。


私は、私に、ずっとほしかったものをあげよう。

ずっと諦めてきたことを、私が、私にしてあげよう。

ずっとずっと、私は、私を幸せにできないと思ってきたのかもしれない。
なにもないと思ったから、足りてないと思っていたから、満たしてもらうしかなかった。
私を幸せにしてくれるものを、外に求めるしかなかった。

だけど、私は、私を幸せにできる。

誰かがいなくても、たったひとりでも、私には、その力がちゃんとある。
私を幸せにすることに、誰にも遠慮しなくていい。

そんなふうに思えるから、私は私にそれをあげる。

やっぱり、今年の私は、一味も二味も違う。





そして、同時に、誰かに幸せにしてほしいと思う私も、いてもいいのだと思っている。

恋愛がないと生きていけない私を、自分の力だけではちゃんと背筋を伸ばして生きてくのがなんだか難しく感じてしまう私も、いてもいいのだ。

恋愛が世界の全てになってしまう私のことも、私は、愛しているから。


誰かに幸せにしてもらうのは諦める、と、ひとり奮い立つことと、誰かに幸せにしてもらいたい、と、愛を必死に求めることを、どちらかしか選べなくて、ずっと、極端に繰り返してきたけど、今は、どちらも私だから、それでいい、と思える。


ふたりならもっと幸せだけど、ひとりだから不幸なわけじゃない。
ひとりでも幸せだけど、ふたりでいられたらもっと幸せな相手が、この先に、きっとみつかる。




そんな思いで、花火を見てきます。





私は、私を感動させてきます。
私は、私を喜ばせてきます。
私は、私を幸せにしてきます。





ひとつだけ、お願いがあります。


いざ、恋人たちに囲まれて、ひとりでも、幸せ…


な、わけねぇーーーーーーーーー!!!!


って、絶望に苛まれるようなことがあったら、全力でわたしを慰めてほしい。


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