丸内敏治 ねじめ彩木

北大路魯山人。戦後、ニューヨーク 近代美術館で個展が開かれ、フランスに渡ってピカソに会…

丸内敏治 ねじめ彩木

北大路魯山人。戦後、ニューヨーク 近代美術館で個展が開かれ、フランスに渡ってピカソに会い、ニースのゴロツキみたいと評した桁外れの日本人。この型破りの美の巨人を未映画化シナリオ「唯我独尊」の登場人物たちが語ります。

最近の記事

魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 養父・福田武造の談1

飯の炊ける匂いで、その日目が覚めたんどす。 いつもより早いし、女房はまだ寝とりました。 まさか思て起きたら、飯炊いてたんは房次郎(魯山人のもとの名)どした。 尋常小学校に入学したばっかりの六つどす。 どこで飯の炊き方覚えたんや訊いたら、「見とった」言うんどす。 女房の飯炊くとこ、いつもじーっと見とったんは腹空かしてのことやとばっかり思てたら大間違いどした。 房次郎をうちに引き取ってから、ひと月も経たん頃どす。 そん前の養家でひどい目におうてたんを近所の人が見かねて、うちの養子

    • 魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 秘書・平井雅子の談3

      先生は京都の上賀茂神社の社家(しゃけ)の家に生まれたのですが、母親はすぐに乳飲み子の先生を捨てていなくなってしまいました。 近くの駐在所の警官夫婦が一時預かり、以来あちこちの家をたらい回しにされて食べるものもろくに与えれず、いつも空腹を抱えていたということです。 先生が幼い時の記憶を頼りに関係者に聞いたところ先生は不義の子で、それに気づいた父親は先生が生まれる前に割腹自殺をして、母親は世間体を気にしたのか、先生を産んですぐに逃げ出したのです。 それでも先生は、行方知れずの母親

      • 魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 秘書・平井雅子の談2

        先生のお嬢様が女学校に進級されたときのことです。 戦争で物資が不足して窯を焚く薪を手に入れるのも難しくなり、お給金の未払いが続いていました。 陶工や女中さんたちが次々と辞めていき、酒屋や肉屋などのツケもたまっていました。 私が窮状を訴えても、先生は次の窯が焚けたら払うと繰り返すばかりで、先生のツケに頭を下げて回る私は疲れ果てていました。 既に陶工頭の荒川さんも去り、奥様も家を出てしまわれていたので、私が先生を支えなければと耐えてきたのですが、その我慢も限界でした。 そんな窮状

        • 魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 秘書・平井雅子の談1

          北大路先生とはじめてお会いしたのは、岐阜県で行われていた桃山期の窯跡の発掘現場でした。 前日の夕方、陶磁器の業界紙のデスクで記事を書いていると、陶磁史の定説を覆す大発見があったとの知らせが入りました。 それまで瀬戸で焼かれていたと信じられていた志野という焼き物が、実は美濃の久々利で焼かれていたというのです。 素朴な中にも気品のある志野の茶碗に取材で出会い、その美しさに魅せられていた私は、矢も楯もたまらず夜行列車で岐阜に向かったのです。 「四百年前に瀬戸の陶人がこの久々利の地に

        魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 養父・福田武造の談1

          魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 娘の談3

          乳首のちぎれるような痛みに、目が覚めた。 息子を母に預けて5年近くもたつというのに、今も授乳している夢を見る。 そんな日に限って母から電話があったりする。その日もそうだった。 「この子は岐阜の荒川さんのお宅で育てていただこうと思うの」 子育てに母も音を上げたのかと思ったら、あたたかい家庭で育ってほしくて、と言う。 荒川のおじさまもおばさまもこころよく受け入れてくださるらしい。 「好きにして」 私は母にそっけなく言った。 母が決めたことにしたかった。 その年の師走、私は母にしょ

          魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 娘の談3

          魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 娘の談2

          生まれたばかりの息子に授乳していると、父が覗き込んで言った。 「乳を飲むとき小鼻が膨らむんは、お前そっくりやな」 意外だった。 父がそんなことを言うなんて。 スズムシやコオロギを見つめるように赤ん坊の私を見ていたのだろうか。 だったら私を描いてくれてもよかったのに。 父は鳥や虫の画をよく描く。 さらさらと見る間に描きあげる画の素晴らしさを高名な小説家の先生がほめていた。 「この子を描いてよ。鳥や虫より可愛いでしょう?」 「いや、人間は美しうない」 思わず私は身震いした。 なん

          魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 娘の談2

          魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 娘の談1

          「お前はワシの子やない」 父親からこんなことを言われたのは私だけじゃないかもしれない。 でもそんなに多くはいないはず。 あんなに私をかわいがってくれていたのに。 お馬さんになってと言えば、お座敷で膝小僧がすりむけるまで馬になってくれたし、トンボをとってと言えば、汗みずくになってパナマ帽で追いかけまわしてくれた。 小学校の送り迎えも人力車だった。 私はお姫様で、父は初老の召使のようだった。私はとても満足していたし、父も嬉しそうだった。 なのに、どうして? もしそうだとしたら、私

          魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 娘の談1