魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 秘書・平井雅子の談3

先生は京都の上賀茂神社の社家(しゃけ)の家に生まれたのですが、母親はすぐに乳飲み子の先生を捨てていなくなってしまいました。
近くの駐在所の警官夫婦が一時預かり、以来あちこちの家をたらい回しにされて食べるものもろくに与えれず、いつも空腹を抱えていたということです。
先生が幼い時の記憶を頼りに関係者に聞いたところ先生は不義の子で、それに気づいた父親は先生が生まれる前に割腹自殺をして、母親は世間体を気にしたのか、先生を産んですぐに逃げ出したのです。
それでも先生は、行方知れずの母親を探し求めました。
「二条城の門の扉に乳鋲(ちびょう)があってな、大きなおっぱいの形しとるんや。お母はんのおっぱいはこんなんやろかと、よう見に行ったもんや」
二十歳のときに母親の居所を突き止め、先生は東京まで会いに行きました。
「千駄ヶ谷の華族の大きなお屋敷でな、お母はんは女中頭やった。お母はん、房次郎です言うたら、迷惑そうな顔してな。何の用やいうて、けんもほろろに追い出されたんや」
涙を浮かべて語る先生のご苦労に胸をつかれました。
「もうワシには君だけや。頼む、ここに残ってくれ」
先生はひざを折り、哀願するような目で私を見上げました。
「縁談がある言うとったな。結婚するんやったら、ここに住んだらええ。子供育てるにはええところや。あの田舎家を使うたらええ」
大金をはたいて移築した茅葺のお屋敷のことです。
そこまで言ってくださる先生のお気持ちに、私は心が揺れました。
「……先生とは、離れている方がいいんです」
陶工頭の荒川さんが先生のもとを去っていくときに私に言った言葉が、図らずも私の口をついて出ていました。
先生はがっくりとうなだれて肩を震わせました。
先生の身の上話は、きっと私の同情を買うための作り話に違いない。
そう思い決めて、私は背を向け、荷造りを再開しました。

敗戦後、戦争未亡人となって乳飲み子を抱えた私は、飢えをしのぐために恥を忍んで先生のもとを訪ねました。
先生は怒るどころか、喜んで私たち親子を迎え入れてくださり、再び秘書として働くことになりました。
先生は自分の生まれた家がどこなのか分からず、今も探し続けていました。
先生の京都への旅に私も同行することになり、上賀茂の家々を訪ね歩きました。そして私は今更のように気づいたのです。かつて私が聞いた先生の身の上話が真実だったことに。
私は何も言えないまま、先生の背中を見つめて石畳の道を歩き続けました。

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