魯山人の渇き 愛なんていらねえよ 秘書・平井雅子の談1

北大路先生とはじめてお会いしたのは、岐阜県で行われていた桃山期の窯跡の発掘現場でした。
前日の夕方、陶磁器の業界紙のデスクで記事を書いていると、陶磁史の定説を覆す大発見があったとの知らせが入りました。
それまで瀬戸で焼かれていたと信じられていた志野という焼き物が、実は美濃の久々利で焼かれていたというのです。
素朴な中にも気品のある志野の茶碗に取材で出会い、その美しさに魅せられていた私は、矢も楯もたまらず夜行列車で岐阜に向かったのです。
「四百年前に瀬戸の陶人がこの久々利の地に入ってきて、志野を焼いたんや。志野あるところ織部あり、織部あるところ志野あり……」
記者たちを前に北大路先生が解説する堂々たる低い声に、私はなぜか聞き惚れてしまいました。
「そこのキミ、メモも取らんと何をボーっとしてるんや」
先生が鋭い目で私を睨みつけていました。
私は咄嗟にごまかすように、
「織部の緑の釉(うわぐすり)は中国や韓国にも例がありませんが、同じように志野も突然日本で生まれた焼き物何なんでしょうか」
先生は驚いたような顔をされて、
「キミ、よう勉強しとるな。今度、北鎌倉に来なさい。ワシが焼いた物見せてやろう」
先生にそう言っていただいて天にも昇る心地でしたが、帰りの汽車では社交辞令を鵜吞みにした自分が恥ずかしくなってしまいました。
交換した先生の名刺をデスクの引き出しに入れたまま一週間が経った日のことです。
退社する私を待ち伏せるように先生が社の玄関前に立っていました。
「キミ、なんで来ないんだ」
先生はあれからずっと私の来訪を待っていたとおっしゃるのです。
先生を傲岸不遜のドサンジンなどと呼ぶ人の数は知れません。
しかし、目の前の先生は、なんとも可愛らしく、高潔な子供のようでした。
それから何度か北鎌倉の窯場に通ううち、私はすっかり先生の自由闊達な焼き物のとりこになってしまいました。
そして先生に請われるまま新聞社を辞め、書生としておそばに仕えることになったのです。
しかし初日から先生への想いは無残にも打ち砕かれてしまいました。
星岡茶寮の機関紙に古窯発見の経緯を口述筆記しているときでした。
先生はいきなり私の眼鏡をはずしてアゴを掴み、陶器でも眺めるように見つめてきました。
「メガネはいらんな」
そして私を押し倒したのです。
息を荒げた先生が私の下半身に手を伸ばした瞬間、私は先生の顔を拳骨で殴りつけていました。
先生は呆気に取られた顔を一瞬見せましたが、すぐに鬼のように顔を真っ赤にして怒鳴りました。
「クビや! お前はクビや! 出ていけ!」
そのあと、どうやって家まで帰ったのか覚えていません。悔しくて、一睡もできないまま朝を迎えました。
そして、なぜか私は出勤の支度をして、北鎌倉に向かったのです。
何事もなかったように口述筆記の机についている私を見て、先生はポカンと口を開け、やがて力なく言いました
「クビ、言うたやないか」
「私がやめたら、お困りになると思いまして」
「確かに困るな」
先生は大きな背中を丸めて私にお茶を淹れてくれました
そのお茶の美味しかったこと!



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