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日本文化論(1)

①日本

日本人は改良が得意だとよく言われてきた。改良とは真似しておいて、加工するわけであるが、真似にも価値観というものがあるらしい。

「私たちの社会では、未知の人を既知のだれかと相似化することによって安心するという習慣がある。似ているということは、それほどの力をもち、価値をもっている。」
これは、例えば、TVに出ている○○さんに似ているなどといって安心するということである。日本では、他人に似ていることは良いことで、他人に似せようとすることも良いことだ。
江戸時代の儒者の間では、まるで中国人みたいだ(本朝の人という表現だったと思う)という台詞が褒め言葉だったらしい。
「ロジェ・カイヨワは計算の社会と混沌の社会という区別を示した。計算の社会とは違った個人の組み合わせで出来上がった社会である。混沌の社会では、自分が自分であることが放棄される。」
ヨーロッパは計算の社会で、日本は混沌の社会ということなのだろう。
「私たちの社会では、似たものどうし、強靭につながっている或る一体性が暗黙のうちに前提とされている。」
日本では、個人が分散されていないので、どこか安心感があるのだろう。


②中国

だが、模倣に価値を置くのは日本だけではない。
「模倣ということを文化の支配概念の一つとして尊重している国がある。中国である。」「中国の文化は先人の模倣を軸として繰り広げられてきた文化であった。」
中国が外国資本の企業に技術移転を義務付けるのは、もちろん、専制政治の産物ではあるのだが、文化的な理由として中国社会では合理化されているだろう。
中国が先人を尊重していたのには理由がある。常識、日常的なものを尊重すること。ヨーロッパのように神の意思などではなく、普通の人々の行為であるから、独創ではなく地上の日常的なことを倣う。そこに価値の発生と伝承が起きる。中国と日本では模倣の持つ意味が異なるようである。


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