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それは自己探求の途中の通過点でしかない.

Tomokiです.何か夢を持ったり,目標を持ったりすることは極当たり前のように行う事だし,何か目標を持った方がいいだとか,夢を持った方がいいと言われることは昔から多かった.最近になって,それは僕にとっては当てはまらないように思えてきた.僕はどうやら他人よりも興味を持つ範囲が幅広くて,子供の頃から自分を多趣味な人間だと自覚してきた.Computer Scienceに絞っても多岐にわたる知識や経験がある.社会に出てからもっと分野は細かく分業されていることに気づいた.おかげで大抵のことはある程度のレベルなら全部自分一人で出来る自信がある.

そんなだから,何か名前についた目標や肩書きに向かおうとすると自然と何かを削ぎ落すことになる.さらに削ぎ落した結果が自分の興味にかすりはするものの,自分の興味ど真ん中ではなくなってしまい,進めば進むほどしんどくなっていく経験が多かった.どうやら僕は決められた型に自分を変形させて当てはめることが難しいらしい(しかし,紛いなりにも出来てしまうから厄介だ).そんなことを気づいて最近何者かになろうとして,迎合してしまうことで,自分は苦しくなってしまう人間だと気づいた.結局オリジナルな自分を認めるという結論にまた落ち着いてきたが,最近のテーマはずっとこれみたいだ.

研究者もアーティストも僕のゴールじゃない

肩書は厄介だ.自分のしていることにわかりやすい名前がついただけで,どこか世界から自分のしていることを認められるような気がしてしまう.実際はおそらく,同じ肩書を持っている人でも立ち回りは多種多様だし,各々のポリシーがあって,主義主張の違いがあるのが現実だろう.それは今までの経験からしてもわかることなのに,油断するとつい肩書を持つことで安心しようとしてしまう.

僕は研究者とアーティストに憧れた.何かを表現する人になってみたかったし,何かを創る人になりたかったからだ.それを職業としたら工学分野では研究者だろうと思ったし,芸術分野ではアーティストだと思ったからだ(もっともアーティストは大きすぎるが).しかし,一度そうやって目標地点を設定した瞬間,「研究者はこうあるべき」だとか「こうでなければアーティストとは呼べない」というしがらみのようなものにどんどん縛られていってしまった.自分が成りたいものを描いて設定した目標を追い求めるうちに,どんどん自分がやりたかったはずの事から遠のいてしまったんだ.そして,客観的に自分を研究者だとかアーティストだと言える証みたいなものを追い求めるようになってしまった.

結局,僕は本当は研究者やアーティストという肩書が欲しかったわけじゃない.それらはあくまで便利な名前のついたものでしかなくて,物事を分類するために敢えて名前を付ける程度のものでしかないんだ.僕がもっとも大切にしたかったのは,自分が毎日行う物事そのものだったはずだ.ものづくりがしたいだとか,何か表現をしてみたいだとか,美しい物を作ってみたいだとか,そんな感じだ.それこそが僕にとって本質的なもので,大切にしたい事柄だったのに,肩書を持たないといけないとか,肩書に即した行動をしなきゃいけないと勘違いするうちに,どんどん自分のやりたいことから遠ざかってしまった.研究者もアーティストも目標じゃなかったんだ.僕が自己探求をしていくうちに,後から勝手に便宜上分類分けされる程度のものでしかなかった.これらは単なる通過点に過ぎないのに,そればっかりを追い求めて,失うことを恐れてしまったら,僕はどんどんズレていってしまうということに漸く気づいた.

名前のついた目標を設定することを辞めた

そこで僕はアーティストや研究者を目標にすることをやめた.それこそPh.D.を取得するために行動することを辞めようと決めた.もっと抽象的に目標を描いていく方が自分はずれないと思ったのだ.今まで何度も研究者になるためにどういう研究をどういう風にすべきかとか,どういった分野を勉強すべきかとか,アーティストになるには何かコンテストや展示会に応募すべきではないか?という疑問を抱えて,何度も何度も修正してきた.直観的にそれらは全て誤った方向を向いてることに気づいていたからだ.僕は別に賞を取りたくて何かを創りたいわけじゃないし,自分のやりたい事を曲げてまで何かの資格を得たいわけじゃない.

僕がやりたいことはいつでも今この瞬間にあるんだ.論文を読んで新しく出来るようになった科学技術に触れてみたい.自分が思いついたアイデアについて調べてみたい.自分が綺麗だと思う音色を並べてみたい.そんな些細な事の積み重ねが僕を形作っている.それが一番本質で,それでしかないのだと思う.

そうやって毎日創りたいものを続けているうちに,アートと呼べる何かを創っているかもしれないし,研究者と呼べる新たな発見をしているかもしれない.そしてそれが他の誰かへの貢献になったり,希望になったり,助けになったりするのかもしれない.でも,それは最初に望むことじゃない.

目標を最初に描けば打算になるし,救われる誰かを想定すれば優しさの押し付けになる.それは誰かをコントロールすることに繋がってしまう.そんなのは傲慢だ.そして,意図していた反応が返ってこなければ恩着せがましくなってしまうこともあるかもしれない.

あくまで僕の人生は僕が好きでやっている事に過ぎないんだ.それが責任の取り方だと思う.それによって誰かが救われるかもしれないし,同時に誰かを傷つけることもあるかもしれない.でも,それは結果論であるべきだと思うんだ.それが打算や押し付けにならないために,僕が僕を喜ばせる為に行った全てが,周りめぐって僕の知らないうちに知らないところで誰かを同時に喜ばせていること,誰かへの貢献になっていること,誰かを救っていること.そして誰も傷つけることのないこと.それらを祈って僕は僕のために創作をするのだと思う.そうしたら,それが自然とアートとなっていったり,研究となっていったり,あるいは事業だったり,社会活動になっていたりするのだと思う.僕はその奇跡を目の当たりにするために生まれてきたんだ.

そうやって今に力を集中して色々な物を残していくことが本質で,あるいはその程度しか出来ることはないのだと思う.この壮大な宇宙という幻想に,僕はどんな幻想を形作ろうか.それはその壮大な中では本当に存在してたかさえ曖昧な代物かもしれない.だからこそなんでも形作れるし,僕が僕として生まれてきた意味になるんだと思う.

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