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アイデンティティ崩壊を恐れない

Tomokiです.新年が明けて1週間が経った.12月の喧騒と年末年始の静けさが過ぎ去って,どんな顔をすればいいのかわからない気まずさのような時間が流れている気がする.きっとそんな顔をしていたかどうかさえ忘れて,また日常へと返っていって,日常に溶け始めた頃にきっと年度を終えて,同じような気まずさの時間を迎えるのが毎年の恒例だ.

元旦に書いたnoteに「自立共生」と書いて,コンヴィヴィアリティとはこの事かとやっと腑に落ちたような気がした.共に生きる.共に創る.しかし,依存はしない.自分の足で立つ.そんな発想を続けているうちに自然と自立共生へと舞い戻ってきた.自分独りで生きていくのだという半ば中二病にも似たある意味での悟りを経て,結局人は独りでは生きていけないのだというありきたりな答えに辿りついた.しかし,それはきっと螺旋階段のようで,同じ地点に戻ってきたようで,1段階上へと着実に登っているようだ.

そんな中,アイデンティティ崩壊を恐るがあまり動けなかった自分と,自分のアイデンティティだと思っていたものを超越することが重要だったということをおぼろげながら理解し始めたので今日はそんな話.

なんでも自分でしたかった

自分にとっては重要で,他人にとっては取るに足らない,大したことのないプライドみたいなものを誰しも持っている.そして,それ自体が自分を自分たらしめていると信じてやまない.かつての自分もおそらくそんな感じだったと思う.それは僕にとっては「なんでも自分一人でできる.」という事だった.人や業者に頼めば出来ることを,なんとか自分でやりたがった.それはおそらく自分の周りとの差別化の結果,何か一つの分野では勝ち進めず,突き詰められない自分がどうにかこうにか作り出した一種の逃げにも思える弱いプライドのようなものだったのかもしれない.

もちろん最初から「なんでも出来る自分になろう」なんて思っていたわけじゃない.興味のあることに闇雲に手を出していったら,多方面に手が伸びてしまっていただけだ.生来飽きっぽい性格で,面白そうなものがあればそっちに移って,飽きたら移って,繰り返していくうちに元に戻ってくるのがルーチンだった.そんな単なる習慣がいつの間にか自分のプライドやアイデンティティになってしまった.

かくして,数多くの事を自分一人でなんとかやり遂げようとするようになった.しかし,別段自分は体力がある方ではないので,結局手はまわらないし,全部が中途半端になっていった.もちろん,少しずつ上手くなっていくので,色んな事が身に付くようにはなったし,楽しい事が増えたのはよかった.しかし,それを一度自分へのアイデンティティとして課してしまったせいで,いつしかそれは自分への呪いとなった.「なんでもできる」自分にならないといけないような気にさせてしまったのだ.

自分で決めたアイデンティティが自分を苦しめる

「なんでもできる」自分でないといけなくて,それができない自分は価値がない.それは端的に自己否定だった.自己否定している状態では当然自信を持つ事はできない.そうやって自己否定していくうちに,人と接することさえも怖くなってしまったし,等身大の自分を晒け出すことができなくなっていった.そして,なんとか自分を良く見せようと背伸びしては,自分の考えや制作物やアイデアも自分で受け入れられなくなってしまった.自分で自分を信じられないので,外の評価だったり,ロジックに頼らざるを得なくなって,権威に縋ったり,数字に縋ったりするようになっていった.

当時の自分がやたら読書したり勉強に打ち込んでいったのも,きっとそれは健全な精神性からではない.きっとそれは当時の自分を自己否定して,自分でない何かになろうとして,新しい知識を入れたり身に着けて,自分を変えることで,結局のところ”自分自身”から逃れようとしていた.

僕の場合は,「なんでも自分でやらないと意味がない」という呪いだった.お陰で僕は最後まで何かを作り上げることが苦手で,何もできずに,永遠に自己研鑽と勉強を繰り返しながら,人に頼ることもできずに,自己否定した自分では人に助けさえも求められず,無間地獄を彷徨っていたようだ.

アイデンティティを手放した

最終的に僕は自らのアイデンティティだと思っていたものを手放すことにした.誰かより何かが優れていなくたって良い,なんでもできなくたってよい,ただ根底にあった「それをしたい」と思った気持ちだけは残して,プライドだとか差別化だとかロジックだとかを全て明け放つことにした.

それは子供の自分に戻ることに近かった.社会だとか世界だとか外界に対しての自分じゃなくて,自分の原動力そのままに走り回るような気持ちに返ったとき,僕の内側の景色が途端に彩り始めて,草花の茂る公園のような豊かさが戻ってきた.

その瞬間から他人への過剰な遠慮だったり,取り繕う必要性を感じなくなった.きっと,それは自分が他人に良く思われていなかったのではなく,自分が他人にそう見せていたということにようやく気づいた.冷たい世界を作り上げていたのは世間なんかじゃなくて,自分自身だったのだ.

すごい自分である必要なんてない

結局のところ自分は大した人間ではないということを,自己否定や自暴自棄になるのではなく,その必要さえなかったということを思い出すことだったんだ.それはまさに諦観だ.大した人間でないけれども,等しく尊い.

それは根拠のない自信に見えて,おそらく最も本質的だったのだと思う.自分に特別性を持たないことで,エゴを孕むことなく生きることができるようになる.それは悟りの境地へと近づいたとさえ言えるのではないだろうか.

なんでもできないからこそなんでもできる.自分一人のアイデンティティなんてなくったっていいじゃないか.純粋な興味と純粋な創りたいという気持ちだけで,人に頼って,人と共に何かを創り上げていける.それは純粋な気持ちで繋がった一つの共同体だ.僕という個体を作りあげる細胞という個体の共同体と,僕を含む複数人で出来上がった共同体に,一体どれほどの違いがあるのだろうか.個人の実績や経歴や歴史なんて単なる記録でしかない.重要なのはそこに喜びと楽しみが確かにあったということだけだ.

そうだ,僕らはアイデンティティなんかに縋らなくても幸せになれる.毎日を楽しめる.毎日を喜びに満ち溢れさせることができる.そしてそれを分かち合ってより大きな楽しみと喜びに満ち溢れた毎日に出会える.そうやって繋がっていく気持ちは愛に違いない.

もう僕はアイデンティティを捨ててしまっても怖くない.


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