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パラダイムシフトを何度も超えたら,結局は自分の感覚にしか意味がないなと思った話

Tomokiです.暑いと思っていた夏真っ盛りの8月があっという間に過ぎ去ってしまった.今年も夏らしいことを何もしなかった気がする.花火もお祭りもなく,ただ強い日差しが差すだけの夏も通りすぎて,いつの間にか秋の涼しさを感じさせる.かえって肌寒いくらいだ.

調子に乗って色んな仕事や制作を入れた結果,随分と忙しなくなってしまった.何かを為そうとするには時間はいくつあっても足りないのだなあと思う.息をつく間もなく1ヶ月があっという間に過ぎる.もうちょっとうまく時間を使えたらどんなにいいだろうと思ったりもする.それでも,以前に比べると時間の使い方も,モチベーションの維持の仕方もだいぶ改善して,不安事も少なくなった気がするから着実に成長しているのだなと思う.僕の今の不安ごとは将来への漠然とした恐怖なんかじゃなくて,今手元にあることとやりたいことを無事こなせるだろうかという不安の方がずっと大きい気がしている.それもどうなのかとも思うけれど,何をすればいいかというステップから一歩上がってやるべきことはわかって,あとはどうこなせばいいかという問題に変わったので,前には進んでいるのだろう.

そうやって自分の成長を感じるとともに,自分の出発点を時折振り返ってみたりする.なぜその活動をしているのか,なぜ決心して今の場所まで来たのか,たまに人から訊かれたりもするので,振り返る機会が定期的に来るのだけれど,今の思考から過去の思考を説明するのは意外と難しいんだなと思ったので今日はそんな話.

成長とはまるでパレイドリアのようだ

とある瞬間から今まで認識できなかった問題の捉え方がぱっとわかったり,解決できないダブルバインドから一気に解放されたりする瞬間がないだろうか.その瞬間と前後では考え方も,世界の見方も全く違うパラダイムシフトだ.僕は性分柄そういった瞬間に出会った時が最高の気分なので,いつでもパラダイムシフトの瞬間に出会おうと必死だ.

それはごく些細な瞬間でもあったりする.ギターの速弾きフレーズが全然弾けなかったのに,ある瞬間いとも容易く弾けるようになった瞬間だとか,意味を汲み取れなかった数式をいつまでもにらめっこしているうちに,ぱっと意味を拾い上げられるようになった瞬間だとか,全然話せなかった英語がすっと口から水を得た魚のように踊り出した瞬間だ.あの瞬間は本当に最高の気分になる.そして,今まで出来なかった理由が全くわからないなんてことが大半だ.

しかし,それはその一瞬でコツを掴んだわけじゃないと思う.ずっと練習しているうちにある瞬間突破口を見つけて抜け出せただけだ.僕らは何か今まで出来なかったことが出来るようになるのは,真剣に向き合ってきた時間があったからだということを知っている.成長はなだらかな坂のように連続なのかと思っていたけれど,実際は階段関数のように連続ではないようだ.

そんな非連続区間を飛び越えた自分には,それ以前を認識するのが少し難しかったりすることに気づいた.以前はなぜ出来るのか不思議でたまらなかったのに,区間を超えたあとは,なぜ以前できなかったかが不思議でたまらなくなる.まるで人が変わったかのようだ.

それはまるで何かの錯視のようだ.今まで何も浮かび上がらなかった不思議な模様から,突然意味のある何かを発見すると,今度は何も浮かび上がらなかった瞬間に戻るのが難しくなる.壁のシミ模様が人の顔のように見え始めるパレイドリアのように自動的に吸い寄せられてしまう.なんとか意識的に気を逸らして,それ以前の何の変哲もない模様を眺めていられるかどうかだ.それも,気を抜くとまた意味のある模様を見出し始めてしまう.

僕は自分の中で雁字搦めになっている思考が,ある瞬間ふっと解される感覚は気持ちがいい.その瞬間に出会える回数がもっともっと多くなって欲しいと思う.だから,きっと色んな分野に跨って,知らなかった情報をひとつひとつ吸収しようとするのだろう.

パラダイムシフト後の自分は,それ以前を認識しづらい

しかし,後からその瞬間を振り返って説明しようとすると難しいことに気がついた.なぜなら過去の自分が今の自分から見れば矛盾だらけなので,なぜ思い込みをしてしまったのかわからなくなってしまう.

ひとつ例を示すために僕の昔話をしよう.僕は社会人になるまで,工学的な思考で生きていた.工学的な思考とは,自分が身につけた技術を誰かの役に立てる方法として使うことだ.そして,それはエンタメなどの感情へのアプローチなどの付加価値としてではなく,定量的にどれくらい”無駄”な時間が短縮されたか,どれくらい効率的になったかという機能価値的な面へ貢献することだ.僕はこの機能価値を提供することこそが工学を学ぶ自分の世界への責任の取り方で,自分が楽しいからという理由で,付加価値に向かうことはよくないことだと思っていたし,それで生きていくのは難しいことだと思っていた.もっとも,付加価値という言葉を知らなくて,エンタメやアートは当時の僕には「無価値なもの」だと思っていたわけだ.

もともと僕がプログラミングを始めたのゲームを作りたかったからだったはずだ.だから,絵を描いたり,3Dモデリングをしたりしていた.音楽も必要そうだからとDAWを触っていたりもした.そんな人間が突然,機能価値以外に価値はない.自分の技術を無駄遣いする半端な大人になってはいけないだと自分で自分を縛りつけていたわけだ.

それを解放してくれたのが付加価値という言葉だったし,共同幻想としての貨幣の役割だ.そして価値とは絶対的な基準によって決められているものではないという思考にたどり着いた.それまでは,何か絶対的なひとつの評価軸で物事は評価されていると思っていた.その錯覚から抜け出すことができたわけだ.

これを咄嗟に説明しようとしたときに,「僕は昔,エンタメに価値はないと思ってたんです.」と言ったあとに,(あれ?なんで自分はエンタメに価値がないと思っていたんだろう?)と思ったりするようになった.自分で過去の自分の思考が違和感だらけで,本当にそう思っていたのか,なぜそう思っていたのか自分でも不思議で仕方がなくなってしまうのだ.

自分の価値観が突然あっという間に変わってしまうパラダイムシフトを超えると,それ以前の自分の思考の根拠がよくわからなくなってしまう.それは今まで狐につまされていたような気分だ.突然ふっと呪術が解けて,我にかえったような感覚だ.

世の中は全て相対的で,絶対的なものはないようだ

狐につまされていた自分がふと我にかえったようと表現したけれど,きっと今の自分も狐につまされていないかどうかなんて,今の自分では認識することができない.いくつものパラダイムシフトを超えた経験が察するに,今自分が抱えている思想も例外ではなく,風が吹けば吹き飛んでしまうくらいの代物なんだと思う.

結局,世の中に絶対的な正しさは存在しないんだ.価値があるかないかと考えたところで,詰まるところ,自分にとって価値があるかないか,誰かにとって価値があるかないかという話に終着する.今この瞬間の統計をとっても,次の瞬間には人々の価値観は移り動く.ついこの間までは誰にも見向きもされなかったものに,次の瞬間には人が群がっていることだってありうる世界なんだ.

そうしたら,正しさだけを取り憑かれたように追い求めるのは滑稽だ.その正しさも緩やかに変化していくはずなのだから.いつでも色んな考え方に飛べるように,様々なものの見方を見つける方が有用なのかもしれない.それは新しい美しさをコレクションするようで,新しい醜さをコレクションしているようだ.全てが表裏一体で,表にも裏にでもなるヤジロベエだ.全てのことには価値があって,全てのものに意味がない.そうなると,やっぱり最後に頼れるのは自分の感覚でしかないんだろうなと思う.

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