見出し画像

本質からズレた部分ばかり着目して自分の大切な物を見えづらくしていた

Tomokiです.つい先日春の暖かさを感じるようになったとnoteに書いた.そうやって近くのほんの些細な変化を探しにいけば,桜が開花しているのをいくつか発見することができた.しかし,そんな暖かさもまるで夢かのようにすっ飛んで,また一気に寒くなった日を過ごしている.桜の開花後に雪予報が出てくるくらいだ.

最近は自分にとっての幸せとは何かを考えることが多い気がする.夢や理想を追っていた時と同じようで少し違う.それは高揚感ではなく,それこそ春の暖かい陽だまりのような安心感かもしれない.もっとも,夢の正体を解像度高く描写していけば,それは強く光る手の届かない栄光ではなく,自分を暖かく包んでくれる優しい陽だまりだったのかもしれない.そんな中で,自分の本当に大切だったものは今思えばくだらない薄いベールでいとも容易く覆い隠してしまっていたことに気づけたので今日はそんな話.

他人の評価を気にしないつもりで居ても気にしている

巷でもよく言われるが,自分のnoteでも何度も書いているように,他人の評価は水物で,気にすればするほど振り回されてしまうことは書いてきた.それ自体,僕がもっとも経験した事柄で,最も抜け出すのが困難だったことだ.素直に生きればそれがトートロジーのように思えてしまうし,それが正しいことだと思えるような表現の仕方で自分の周りを埋め尽くされていってしまう.社会の一員としての責任だとか,思いやりの心だとか,自己犠牲の美徳といった具合だ.

他人の評価を追い求めること自体は,なにも単なる承認欲求だけからくるものとは限らない.それが生存戦略にもなることが多いからだ.他人に役立つことで仲間として受け入れてもらえたり,利害の一致による交渉の術になったりするからだ.だから,僕らはプライドだとか承認欲求だとかをくだらないと言える観点を持ってからも,ついその魔性に惑わされてしまう.時には危機感を煽る悪魔として,時には甘い果実として.

自分のしている活動が誰かの役に立つか,需要があるか,大義はあるか,正義はあるか,それを見出せなければ行動への活力を失ってしまうなら,きっとそれは他人への評価を気にしてしまっている.誰かに認めてもらうことや讃えてもらうことを求めて行動することだけが「他人の評価を気にしている」ということだけでないことに気づいて,僕ははっとした.認めてもらおうなんて思わなくても,つい自分の行動指針に他人の評価軸があることに気づいたからだ.

もちろん,他人の評価軸を認めることは時には重要だ.企業のマーケティングはまさに大衆や業界の評価軸を推し量る術だし,全く需要のない活動だけを続けても僕らは活動をずっと継続できない.しかし,需要のあることや誰かの評価を気にして生きなければいけない社会は果たして成熟した社会と言えるのだろうか.人としての多様な尊厳,生き方,信条が大切にされる社会を目指す現代においては,その軸に惑わされるのは正しくないはずだ.独自の文化を持つ少数派民族が,彼らの中で大切にしている儀式や創作物を少数派というだけで放棄させられ,消えていくのがより良い世界なわけがない.むしろ自分だけが価値に思える事柄だったり,多くの人が体感したり目にすることのできない活動は世界にとって貴重だ.その活動に大して罪悪感を抱く必要はないはずだ.

好きなことを言語化するのは以外と難しい

自分軸で生きているように思えて,実は大半が他人の軸に沿っていることに気づいた時,自分の好きの正体を探るのは意外と難しいことに気づく.自分の好きなことも最初のきっかけは「誰かが喜んでくれた」ことだったりするからだ.自分の好きなことの中に他人との関係性が全くないことも不可能だと思う.本を世界に浸っていても,知識を学んでいても,音楽を楽しんでいても,そこには必ず他人との関係性の中にあるはずだからだ.

だから他人軸が自分の指針の中に少なからず入り込んでくること自体は問題ではない.むしろ,全くないことは不可能だ.問題なのは自分がそれらに意図せずコントロールされてしまっていることに気づいていないことだろう.自分がふとやろうと思いついた次の瞬間に「果たして需要はあるのか」だとか,「やって意味があるのか」と思っていることが問題なんだ.世の中の需要や社会へのメリットではなく,まず自分が興味を持ったこと,面白いと思った気持ちを優先すべきだ.それが世の中への影響を感じないからと言って無価値と判断してしまうのは,他人軸を取り入れすぎだ.

そんな風に自分が好きだったことや,今までやってきた中で面白かったことをひとつひとつ振り返ってみたら,僕は純粋にプログラムを書くことが好きだったことを思い出した.書いたプログラムが暮らしを楽にさせるかや,業務を効率化させるかや,安定した収益を生み出すかよりも,そのシステムが奇抜な仕組みで動くかや,ギミックがうまく噛み合って美しく動作するかの方が僕にはずっと面白くて,やりがいのあることだということに気づいた.既存のシステムやものをうまくハックして,システムが成り立つ姿に感動を覚えていたことを思い出した.

もちろん,そうやって出来たシステムが誰かの役に立ったり,誰かを楽しませたり,世の中に受け入れられたら嬉しいのは間違いない.でも,僕の中で特に工夫もハックもないけれど,安定して役に立ったり,収益になったりするようなプログラムを同じような手法でただルーチンのように開発するようなことはあんまり面白いと思わないことに気づいた.同じような製品を同じような方法で同じような工程でひたすら量産し続けるようなルーチンワークはきっと僕には向いていないようだ.毎回なにかしらの工夫をしてみたい.そして,それが時にはうまく動かなくても面白い.そんな純粋なインタラクティブが楽しいんだと気づいた.

それは同じプログラミングでも僕の中では違っていた.それはAIだったり,3DCGだったり,IoTだったり,ブロックチェーンだったりの最先端のコンピュータサイエンスに興味を持つ理由と同じだ.そして,単にウェブサイトを作ること一つとっても,面白いことと面白くないことがきっと僕の中にある.敢えて言語を替えたり,フレームワークを替えたりするのが楽しいのはきっと僕の感性をくすぐってくれるからだろう.

本当に自分の好きな物は,単に物を作ることでも違うようだ.同じ物でも量産し続けて洗練させていく職人的なことを好む人がいれば,毎回全く別の物を次々に作っては挑戦していくことが好きな人がいるようだ.それは,「自分の好きな物はプログラミング」と一括りに考えていては気づけなかった.僕の好きなことはプログラミングで何かをハックしたり,工夫したり,実験してみたりすることだったみたいだ.

どうやらそういった純粋な興味を僕は他人軸を取り入れすぎることで希釈して,縛り付けて,自分の好奇心やモチベーションを少しずつ下げていってしまっていたようだ.

自分の純粋な興味こそが良き未来を切り開いてくれる

他人の目を気にしないことは,他人とのあらゆる関係性を断ち切ることではない.むしろ,自分にとってかけがえのない人との関係性を固く結んでくれるはずだ.そしてそれは誰かに認めてもらいたいという気持ちからではなく,社会に受け入れてもらおうとすることでもなく,純粋な自分の気持ちに向き合ったときに出会えるようだ.自分の純粋な興味に突き動かされて夢中になってできる創作物や活動そのものは,意図することなく自分の唯一無二の血が通った作品となって産声をあげるからだ.その産声はやがて色々な人たちを巻き込んで,大きな生命へと成長を遂げる.そうやって僕たちは愛を紡いでいける.

僕らの幸せの源は外にはなくて,いつだって僕らの内側にあったんだ.自らがその正体を見えづらくしていたに過ぎなかった.些細でも確かに鼓動を刻んでいた.いつか再開できる日を待ち望んで.その光に出会えたならば,もうきっとこれからは大丈夫だ.その光を頼りに進んでいければ特別なんかじゃない自分を特別だと名付けることができる.そしていつの日か,そんな名札をつけなくても,特別なんかじゃない自分を誇れるようになる.きっとそれが幸せの正体なのだと思う.

よろしければサポートを頂けると嬉しいです! 皆さんから頂いたサポートでより良い記事を書いていきます!