うつの要因を探る内省文② 〜職場環境編〜

前回の記事はこちらです。


◇◇

今まで築いてきた業務管理課という部署だったが、またしても私は部署異動をさせられることになるのだ。

今度こそ開発部で開発ができると思うかもしれないが、そんなことはあり得ない。
初めからこの会社は私に開発などさせる気はなかったのだから。

2015年7月私はまた営業部マーケティング課に戻った。
今度は海外販売の担当をするためだ。

“また嫌いな上司二人と働かなければならない…。”

本当は部署異動など嫌だったが、この時はすでに業務管理課の上司が海外支社の社長をしていて本社にほぼいなかったということと、目をかけてくれた直属の先輩が転職してしまったので、業務管理課に居続ける理由も見失っていた。

私は流されるままに営業部へと戻っていった。

しかし業務内容は当初営業課として働いていた時よりは楽しいものだった。

海外の取引先が日本語を話すため初めは英語を使う機会がなかったが、次第に私の業務内容は広がっていき、海外のゲームを日本で販売する事業の立ち上げと、その担当にもなっていった。

次第に英語を話すチャンスも増えていったので、海外メーカーと話す時は楽しかったし、色んな人と関わっている時間が何より充実していた。平行して、日本の開発会社や個人クリエイターのゲーム・企画のプロデュースをすることになっていった。

業務に没頭している時は楽しかったが、やはり上司とは馬が合わなかった。

席も上司の前ということもあり、後ろから声をかけられるたびに身体がビクッとなって毎日が緊張で耐えられなかった。

怒られる頻度は次第に上がっていき、その度に泣かされた。
大声で怒られるということはないのだが、こっちが言うことに全く聞く耳を持たず、論点をずらしながらひたすら静かに責めるという手法だった。

こちらが悪いと思っていないことに対しても怒られ、辛い日々が続いた。
怒られる日は大体自宅に帰っても、電気をつけず、着替えもせず、そのままソファに泣き崩れていた。

2015年12月、とうとうこのままでは会社に行けなくなるという恐怖を抱き始め、心療内科に受診した。その時「うつ病」と診断されたのだ。うつ病の種類が大学の頃と違うので、再発なのか、それとも新しく発病したのかは分からない。

うつ病になってからは会社を2週間だけ休んだことがあったが、1年間の休職期間は設けず、働き続けた。その後1年経過してやっと私は会社を退職した。
最終的に私はトータルで約3年間この会社で働いたことになる。

退職を決意した理由は大きく分けて3つあった。

一つ目は、海外メーカーと取引をする上で、英語の契約書が必要になった時のこと。本来なら弁護士にきちんとお願いして英語の契約書を作成してもらうものだと思い、私からそれを上司に提案したが、悲しくもその願いは聞いてもらえず、結果私と私の後輩で分担して全ての契約書を英語で作成することになった。なんの知識も資格もない私と後輩がだ。
それでも流石に会社としてまずいと思ったのか、後々管理部が平行して契約書を用意することになったのだが、締切に間に合わず、結局取引をする際は私と後輩が作った契約書を使うしか手段がなかった。この時も管理部のミスのはずが何故かきちんと締切の管理をしていないと上司から怒られた。上司の理不尽さにもう耐えられなかった。

二つ目は、開発するという夢があったにも関わらず、この会社での将来が見えなかったため。この会社は私に開発をさせる気など、はなからなかったのだと悟ったのだ。

三つ目は、思い入れのあった開発会社さんのゲームをプロデュースしようとしていた時に、経営会議で予算の折り合いがつかず、頓挫してしまった時だった。最善を尽くした結果だったのだが、結局プロジェクトを立ち上げられなかったので、私の役目はここまでかという気持ちになり、2016年12月に私はこの会社を退職した。

この後しばらくフリーランスとして働くことになるが、金銭的な問題に面したため、2018年9月に再就職を果たす。今度は開発会社でゲームプランナーとして就職することができた。この時地方から都心の方へ引っ越した。

初めは夢が叶って楽しくお仕事をさせていただいた。周りの同僚も優しかったし、申し分なかった。しかし担当していた受託プロジェクトそのものが右往左往することになっていき、雲行きが怪しくなった。振り回される開発スタッフはどんどん精神的に追い込まれていき、私もうつ病が治っていない状態で働いていたため、精神的に病んでいった者の一人だ。しかもクライアントとの関係も次第に悪くなっていった。

「aimaさんはこれが面白いと思っているんですか?」

私が提案した企画書に対して容赦なく指摘の言葉を浴びせてくるクライアント。しかし、この企画はクライアントが希望したものを反映したものだった。

私は仕事に対してストイックな姿勢を持っていたため、言いたいことははっきりと言うタイプだった。納得がいかないものには安易に取り組まない性質だった。そのせいで、恐らく周りも私なら多少攻撃的になっても構わないというイメージがあったのだろう。実際はガラスのハートだったのだが。

それがあってのことか、クライアントからも同じ立場として接せられたし、取引先ではなく、同じ会社の社員として扱われるようになった。それを良いことと受け止める人もいるかもしれないが、私にとっては不満であり、納得のいかないことだった。

結局最後の方はクライアントの言いなりになって働いた。この時点で心がもう死んでいたのだろう。モノづくりとはどういうことか分からなくなっていた。
何をしても却下されたり、やり直しさせられた。接せられる態度は対等だとしても、結局は下請け。下請けとしての立場をとことん思い知ることになり、せっかくプランナーになれたのに、プランナーとしての意味が分からなかった。情熱を注いでモノづくりに挑むことができず、これなら私でなくても務まるし、私はただの駒だという現実を知らされた。

ストレスや過労によってうつが悪化してしまい、2020年6月に私はそこの会社も退職することになった。

思うに、私はアメリカで良い経験も辛い経験もたくさんしてきたため、アメリカへ行った意義を求めていたのだろう。自分で言うのもなんだが、私は今まで努力を人一倍してきたつもりだし、能力、知性、モチベーションも十分あると思っていた。
だが、社会人になってその自信は粉々に崩された。英語というスキル、モノづくりに対する能力と情熱を持て余すことになり、自分も含めて私という人間を使いこなせる人が誰一人いなかったのだ。せっかく苦労して積み上げてきたものが無意味なように感じ、そんな社会に対して私は怒りというものを感じた。

私のうつは怒りと悲しみと絶望でできている。

そして2021年8月現在に至る。


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