MC噺家、役者のオレも 心拍数は変わらない
0.出囃子
えー、毎度ややこしい随筆を一つ。
最近落語に興味がある。舞台の真ん中には座布団が1つ。高座に座り、1人で語る。小道具は扇子と手拭いの2つだけ。
動きと道具を限定しているのにも関わらず、聞き手は江戸にタイムスリップしたような気持ちになるのだ。
演劇に比べあまりに高難易度縛りプレイではないか。
こうして落語について調べているとふと疑問に思ったことがある。
落語と演劇。どちらにも「登場人物のセリフ」がある。役者は言わずもがな劇中の登場人物になりきる。では落語家は?
『落語家は人物のセリフを言う時、演技をしていると言えるのか?』
これについて考えてみる。
1.落語の「音感」
落語とは、面白おかしい話や人情話を身振り手振りを交えて、たくみに落ち(オチ)をつけて終わる話芸のことである。落語家は、話の中で何人もの登場人物を演じ分ける。
「だって金がねえってんだからしょうがねえ」
「お前ぐらい意気地無しはないよホント……、ばか、間抜け、トンチキ。お前なんぞ豆腐の角に頭をぶつけて死んでおしまい!」
このように噺の中で出てくる登場人物のセリフを落語家1人で掛け合うのだ。
立川志らくは、落語とお芝居の違いとして、落語は話す時に『感情移入をしない』と言っている。
何人もの人物を演じ分けるにも関わらず、会話の場面で感情移入をしないというのはいささか不思議である。
彼はYouTube内で、噺の技術と個性のことをリズムとメロディーに喩えている。
売れている人にはメロディー(個性)があり、いくらリズム(技術)があってもメロディーがないと中々お客の心を掴むことができないというのだ。若い落語家も個性を出そうと奮闘する。
では、個性というのは一体どのように出すのか。
そもそも個性を出そうとするのが間違いである。
個性は出すものではなく抑えつけるものだ。抑えつけて抑えつけてそれでも顔を出すのが個性であり、抑えつけて出てこないようなら落語家には向いていない、と志らくは語る。
また、「役者が落語やるよりも歌手に落語をやらせた方が上手い」「歌に音痴があるように喋りにも音痴がある」と落語の音楽性についても触れている。
良い落語は、良い音楽と同じように明確にリズムとメロディーがあるようだ。
これらの情報から考えると、
落語は
・古典(古くから伝わる)
・台本がある※
・感情移入をしない
・喋りにはリズムとメロディーがある という特徴がある。
私は当初、落語には人物のセリフがあることから演劇に近いのではないかと考えていた。しかし、人物に感情移入をしないのであれば演技とは言えない。
志らく師匠が落語の音楽性について話していることから、落語は演劇よりもクラシック音楽に近いのではないだろうか。
2.落語とクラシック音楽
さて、ここからは落語とクラシック音楽は近いのか?について考えてみたい。
クラシック音楽も、古典であり台本(楽譜)があり、リズムとメロディーで構成されている。
では、感情移入という点ではどうだろう。
餅は餅屋というわけで、早速クラシック畑の人に聞いてみることにした。
「(略)上記の点で落語とクラシック音楽は近いんじゃないかと思ったんだけどどう思う?
あと、ピアノ弾く時って感情移入してる?」
🎹「僕も演劇よりクラシックの方が落語に近いと思う。
感情移入は……人による。身体をすごい動かしながら弾く女性っているじゃん。ああいう人は感情移入してるんじゃないかな。
ただ、僕は弾く時に感情移入をしないし、する必要はないと思ってる。」
「じゃあ何考えて弾いてるの?」
🎹「当時の演奏を如何に再現するかということに気をつけて弾いてるよ。
そのために時代背景をかなり調べる。
どんな情勢で誰に向けてどんな感情で作った曲なのか。
楽譜には演奏記号っていう曲のイメージを指示する記号があるのね。のだめカンタービレってマンガ知ってる?あのカンタービレは『歌うように』って指示。
他にも、演奏記号の中にAndante『歩く早さで』という指示がある。
当時の人は今の人と同じ早さで歩いていたのかな?靴はどんな靴?どんな道を歩いた?整備されてないから歩きにくいはずだよね。
ただ、今と歩く早さが違っても、今も昔も人の心拍数はそれほど変わらない。そうやって考えているとどのように演奏をするのか見えてくる。」
演奏では『当時の再現』をするから感情移入は必要ない。
落語にもきっとその噺ができた経緯、情勢や客層などを調べていくと当時を再現するヒントが手に入るはずだ。
Andante『歩く早さで』
数百年前に込められた、楽譜の左上で生きるメッセージ。歩く早さにも当時の生活が反映される。私にはただの7文字にしか見えなかったが、そこから読み取れるものは小さくないようだ。
200年前の江戸とウィーンから変わったもの、変わらないもの。生き方も考え方も習慣も違うのに、心拍数は変わらない。
当然、人の気持ちも変わらない部分があるのだろう。
しかし、まだ腑に落ちない。
今回はピアノの話だったが、声楽はどうだろう。声楽は感情を込めて歌うイメージがある。
ピアノは、楽器を介しての演奏である。自分の身体を楽器とする声楽はピアノに比べ感情が入りやすいのではないだろうか。
声楽は、古典で、台本があり、リズムとメロディーがあるという条件を満たしている。
先ほど聞いたクラシック音楽とは異なる意見が聞けるのではと期待して声楽をしている友人に経緯を説明する。
「(略)って考えてるんだけど、声楽って感情移入するもん?」
🎤「声楽は歌だけど『劇中歌』であることが多いんだよね。
演技として、もっと言えば役の感情になれないと歌えないから、恋を知らない人に恋の歌曲は歌えない。
だから声楽には感情移入は必須だよ。」
役者寄りの回答である。声楽は歌を歌っている人物に入り込むらしい。
確かに恋煩いがテーマの演劇や歌を歌うためには恋煩いしてみないとその役の気持ちは真に分からない。しかし、恋煩いがテーマの落語をするのに落語家自身が恋煩いを経験する必要はないように思われる。
落語≒クラシック音楽 →感情移入しない
演劇≒声楽 →感情移入をする
これらはどう違うのか。
感情移入をしない落語とクラシック音楽は客観的である。第三者視点。彼らはMCなのだ。物語の進行人であり、神視点で登場人物を動かす。
落語は一種のエピソードトークと言っても良い。話の中に人のセリフは出てきても、人物に感情移入して話すわけではない。
感情移入をする演劇と声楽は主観的。彼らは登場人物であり、その役の目線から語る。
芝居は何役やっても登場人物の枠を出ることはないのである。
落語家には物語全体の主導権があり、役者は役そのものの主導権がある。2つは全く別物であり、同じく物語の主導権を持つクラシック音楽が落語と近いと言えるだろう。
タイムリープもののアニメでも喩えられる。
落語家はタイムリープした時に過去に干渉できない案内人(傍観者)で、役者はタイムリープした時過去に干渉して未来が変わりまくる特殊能力持ち。
落語家は全体が見渡せるが、1人1人の登場人物に影響は及ぼせないし、忖度することもない。
落語家は案内人として、擦り倒された噺を面白おかしく語るだけなのである。よって、感情移入は必要ない。
確定した台本を変えずに、結果を変えろ。
世界を欺け。
それが『シュタインズゲート』に到達するための選択だ────────
健闘を祈るぞ、狂気のマッドラクゴパフォーマー。
お後がよろしいようで。
2023/09/01
【参考】
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