不定期な今月のコラム 2022年12月号

『時雨てきましたね』
日常のなにげないシーンで突然こんな言葉を耳にしたら、はっとしないだろうか。
銭湯に行ったときのことだ。脱衣所で帰り支度をしていると、番台にいるおかみさんが男性客と話しているのが聞こえた。おかみさんのこの言葉の通り、外に出ると冷たい雨が降っていた。寒い時期に小雨が降ることを「時雨」と表現することを、知識としては知っていても、こんな風雅な言葉を会話で使える日本人がどれだけいるだろうか。一日中YouTubeやTikTokを見ていてもとうてい出会えない。でも、銭湯では出会う。

今年の7月、京都新聞の「読者の声」欄に、こんな投稿文が掲載されていた。一部を紹介したい。

 上賀茂神社の北側に、「柊野別れ」という名の交差点がある。その少し下りたところに、「柊湯」という銭湯がある。今年の2月頃だったろうか「休業します」とのはり紙を見た。設備故障により営業できなくなったらしい。
 京都市内には古い銭湯がいくつもあり、お風呂文化は京都の一つの文化遺産である。しかし昨今、設備故障や後継者不在による廃業の話をよく聞く。上賀茂、西賀茂地域にもいくつかの銭湯があったが、ほぼ全て廃業・休業状態だ。「柊湯」にも毎日通う高齢のご婦人が何人もいたが、今はどうしているのだろう。
 銭湯はただ身体を洗い流す場所というだけでなく、地域の人々の交流や、個人の心の癒しの役目も果たしている。私自身、疲れた時や病み上がりの時、必ず利用していた。このような地域交流の場、文化遺産を何とか残していけないものだろうか。夕方に鳴り響くカランコロンという音を早くまた聞きたい。
(学生・42歳)
2022年7月15日 京都新聞朝刊

京都市内には現在70軒近い銭湯があるそうだが、廃業を伝える記事をときおり紙面で見かける。私はこの投稿文を見たあと、ふと市内にある銭湯をまわってみようと思い立った。30軒近くまわった今、いくつかリピートする銭湯ができた。通いやすいという立地の問題もあるが、リピートするにはそれなりの理由がある。
銭湯は基本的にその地域の人たちが利用するもの。よそ者の私はまず常連さんたちの様子をうかがいながら、おそるおそる潜入する。それぞれの銭湯にはそれぞれの特徴がある。湯船、シャワー、サウナなどの設備はどこでもだいたい一緒だが(サウナはけっこう違う)、そこに集まる人たちの習慣とか、暗黙のルールとか、雰囲気には違いがある。そのコミュニティにおじゃましたときのこちらのくつろぎ方は、そういったところから測られる。何度か通うと、人々の様子もわかってくる。
ある人が「こんばんは」と入ってきて、「こんばんは」とある人と会話が始まる。気がつくといつの間にか片側の洗い場にはご婦人たちがくっついて楽しそうに背中を並べている。きっと、決まった時間に決まったシャワーの前に座って、決まった仲間と話すのだろう。私はその並んだ背中を見ていると、気兼ねなくゆっくりと湯船に浸かることができる。よそ者の私を含め、そこにいる人たちが自由に過ごしている銭湯は、いろんな条件をクリアして、まちがいなく良い銭湯なのだ。こうしてよそ者はリピーター(準常連)となる。
毎日銭湯を利用する人にとって、お風呂は汗を流す以上の役割を果たしていることは、投稿者の言う通りだ。自分の居場所と思える場所や、表現の場は、今や現実の街の中には少なく、別の次元に広がり始めている。

先日とあるコンサートに参加した。コロナ以降ポピュラーになったZOOMというオンラインミーティング用アプリケーションと、実際のコンサートホールとを繋いで行うハイブリッド型のコンサートだった。このプロジェクトの目的は、ZOOMを楽器に見立てて新しい音楽を作ろうというもの。そこで私は、別々の場所にいる7人のピアニストが一緒に演奏できる作品を発表した。ZOOMの特性である音の遅延を音楽の効果として利用したり、画面上で巻物状の楽譜をスクロールして演奏の進行を指示したり、通常のリアルな環境で演奏するのとは違う方法を考えた。実はこのプロジェクトは、昨年から今年にかけて、東大の授業の一環として制作されたものだった。私はコロナ禍の恩恵というのか、まさにZOOMで遠隔授業を受けることができた。
私はこの作品の制作を通して、作曲とは何かをあらためて考えた。演奏に必要な条件は、演奏者、楽器、場所。作曲者は基本的にそれらの条件に従って音楽を書かなければならない。しかし条件が限定されればされるほど、アイディアのターゲットは一箇所に集中し、音楽はシンプルになろうとする。すると、結果的にいびつな形ができあがる。つまり面白い作品になる。コンサートでは小学生のピアニストも参加してくれて、作曲の条件をより明確に限定する役目を果たしてくれた。演奏は大成功だった。
ただこの作品は危うさも含んでいる。ひとたびインターネット回線が切れたりパソコンの電源が落ちたりしたら演奏は不可能になる。そのインパクトは大きな自然災害にも匹敵するだろう。

そういう世界がわれわれの日常になっているから、「時雨てきましたね」と聞いただけで、私は一瞬にして自分の今いる世界が鮮やかな色彩を帯びて浮かび上がったように感じたのだ。
本当に聞きたい言葉や、感じたい温度や、もやもやすることの答えのようなものに出会うには、自らその場所へ赴く必要がある。それは、いつも行く銭湯のいつも座る洗い場くらい、限られた条件の小さな場所なのだ。そこには、たくさんの面白いいびつな形をした顔がある。それが(リアル)ローカル文化だ。
文化とは本来形のないものであり、知らないうちに生活の一部になっている。そして知らない間に消えていくものである。伝統と呼ばれているものも、ほとんどこの国の文化としては生きていないかもしれない。それでも、私たちはせめて形だけでも残したいと願う。私も、「学生・42歳」の読者と同じ思いだ。

来年も、音楽や文化について不定期にお届けします。どうぞよろしく。

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