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PM7:45  1

今も覚えている。

電車に乗り遅れたあの日のことを。
私はずっと駅に一人でいた。何もすることはなかった。冬の寂しさの中にいた。iphoneの充電は切れている。世界から切り離されたようだ。
左ポッケットのカイロを強く握ってみる。ちょっとあったかい。
この駅に来たのはいつぶりだろう。
今は闇に見えないがどんな風に雪が積もっているかを知っている。
私、そんなものを今意識している人はいるのだろうか。ふと彼氏なるものが欲しくなる。次の瞬間あの人のことが思い浮かんでやっぱりいらないって思う。
なんか変わっちゃったな。

西野紗香


普通の名前。どこにでもいる。
赤と緑のチェック柄のマフラーに息を吹きかける。白い息が右から左にゆっくりと動く。それを追ってなんとなく左を向く。灯の櫨染色に少し赤が加わったみたいな空間に消えていった。なんか理科の先生が原理を説明していたっけ。授業なんて真面目に聞いている人っているんだろうか。そんな授業をしている哀れな人形を、判然と見ていた。
首を元に戻す。
低めにくくったポニーテールがマフラーに逆らっているから首を左右に二三回振ってみた。殆ど目は閉じていたのに、何か今まで見たことのない色が目に入った気がした。
ちょうど、いやいいや。私なんかには、こんな時に気の利いた文豪めいた比喩は出てこない。普通の人だから。
何かがあるのは分かっている。何があるかはわかっていない。
先生から呼び出された気分。

猩猩緋に映るそれを見ている。屋代というのに十分程な屋台である。要するに、北部にならありそうなおでん屋さんがあるのである。暖簾の深緋に安っぽい達筆で、且つ何か懐かしさを感じる愛嬌のある字で、「おでん」とでかでかと書いている。

意味もなく、近づいてみる。来た時に気だ付かなかったのはまだ開店していなかったからだろうか。きっと誰かいるのだろう。電車が来るまでの話し相手ぐらいにはなってくれるだろう。

「すみません、いいですか。」

「いいですよ。っちょっと待ってね。今から椅子出すから。」

いかにも善人というような声が聞こえてきた。皺が器用に折りたたまれ顔には、少しのシミがあれど、何か瑞々しささえ感じる妖艶さがあった。絵本の中でいつか見た”おばあちゃん”みたいな人である。

腰を70度ぐらいに、いやもう少しか曲げている。

よたよたしながら、椅子を出してくる。素敵な人だなあと思っていた。

手伝うべきか迷ったが、親切心に従うことにした。

あれ、違和感がある。

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