幸福な日々。
こんなに晴れた、涼しい夜の家族の祝うべき日に僕は一体何故、こんなにも寂しむべき疎外感に似たものを覚えているのだろう。
家族の話題についていけない僕はその場から離れた。
良好なコミュニケーションに対する僕という不純物は取り除かれるべきだからだ。
だが幸せそうに笑う家族の中で僕は彼の目の翳りを見てしまった。
彼は僕の目を見てはっきりと深々と溜め息をついた。
少し前に彼は酒の席で僕に「あなたがこのままだったら(僕が結婚しなければ)あなたが老いて、もし障害者になったら介護をするのは私たちだ」と言った。
確かにあの時、彼も酔っていた。
だが、酔っていたからこそ間違いなくそれは本意だった。
その通りだ、彼の言う通りだ。
僕も老いる。
老いて人に迷惑をかけてしまう。
彼のその言葉の真意は「私たちの幸福の絶頂の邪魔をするのであれば速やかに死ね」というものだったのだろう。
(そも、僕に配偶者や子供ができたとしても自分の介護をさせて苦しめたくはないが)(と言うのも僕自身が看護という極めて屈辱的な職に就いているからこそ、その苦痛を文字通り"痛いほど"理解しているからだ)
弟のその残酷な言葉に対して僕は笑って「最善を尽くすよ」と返した。
僕の言う"最善"は鬱病を完全に克服する前からこれっぽっちも変わっていない。
僕のその言葉を聞いて弟も、義妹も笑っていた。
家族とはなんだろう?
一番近くに存在する他者だ。
では"その愛すべき他者に迷惑をかけない最善"とはなんだろう?
誰か僕を納得させてくれ。
その灯火をどうかわけておくれ。
そして僕を生かしてくれ。
まだ死にたくはない。
日々の労働の理由が自分の葬式の足しにする為、だなんてあまりにも虚しすぎる。
彼らが幸福になる度に死刑(と言っても刑を下すのは僕自身だが)の時間が迫ってくる。
自分が正気で、正常で、正しい選択ができて、それを実行できる能力がある間に手を下さなくてはいけない。
あとどれくらい時間が残されているのかわからないが、僕が心身ともに健常でまともである時間はたぶんあまり長くはない。
ようやく僕自身の心の病も良くなったというのに
ようやく生きることがこんなに楽しくなってきたというのに
ようやく人を真正面から愛することができるようになってきたというのに
ようやく永遠にも似た僕の曇天が驚くほど晴れたというのに。
僕自身の幸福が、僕の周囲の人間の幸福な日々によって確実に
靴の底が擦れるように着実に
嫋やかに摩耗してゆく。
あぁ、馬鹿馬鹿しいったりゃありゃしない。
毎日くる日もくる日も熱心に幸福を祈ったというのに
こんなのあんまりじゃないですか。
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