見出し画像

憎悪について。

僕が今までの人生で自分の心の容量を一番消費していたものは「憎悪」だろうと思う。

ヘラヘラ笑ってる人間が憎くて憎くて仕方がなかった。

でも違った。

彼らは笑いたくて笑っているわけではなかったのだ。

自分より下の人間を作り出して排他して笑うことで心を保っていたのだ。

僕は想像し得る有りと有らゆる排他を受けて生きてきた。
複数からの暴力行為
「失敗作」「出来損ない」、それに類する暴言
精神的苦痛の付与
性的な虐げ
個人の欲による侵害行為
陰口
無視
複数回における自転車や所有物の破壊
上履きに画鋲
顔写真に穴開け、落書き等の誹謗
ネットでの晒し上げ行為
教師による思想の磔
詐欺
僕からの歩み寄りに対しての漬け込み
食事に排泄物をかけられたことだってある。

それこそ思い出していちいち挙げていけばキリがない。
「自分はこんなことをされました!」と被害者ヅラをする人間は加害者より愚かだ。

でも本当に辛いのは彼ら彼女らだったのだろう。

悪人から悪事を行使されて自分まで悪人になることはないという思考構造ではないし、僕はあの人たちに対して当初は憎悪を感じていたのだろうけれど、今はもう違う。

「汝の敵を愛しなさい」ということでもない。

「本当に哀れな存在がなんなのかを考えてみなさい」ということだ。

安心していい、自分の立場はあなたの縁人である他者が証明してくれる。

だからあなたは間違わないでいてね。

だからあなたは正しく生きてね。

そのまま思うように真っ直ぐ生きてね。

憎悪なんてものに支配されてまであなたは悪人にならないでいてね。

あなたが絶対的に正しいだなんてことは言えないけれど、正しくあろうということだけは忘れないでいてね。

あなたの死因が"考えすぎ"だなんてことはないのだから。

本当に困った時、きっと有限な、たった1200~1500g程のあなたの脳より大きな認識や存在が手を貸してくれます。

それは一般的に宗教だったり、神だとかいう最初にルールを決めようとしたつまらん男だったりすることがあるらしいけれど、僕が言っているのは言わば「正しさのイデア」と表現して仕舞えるような、もっと輪郭をぼやかすのなら「倫理」というやつということです。

目の前にある林檎は本当に赤色?そもそも林檎だろうか?と常に懐疑しなさい。

その思考の研鑽の果てに正しさがあると信仰しなさい。

そして果ての認識も疑い尽くしなさい。

議論を展開できる相手を見つけると答えが見つかる速度が上がります。

正しさなんてものは歴代の哲学者が全員死ぬまで頭を抱えても答えの出なかったことなので、あなたの人生で本当に正しい答えが出るとは限りませんが。

でも、例え哲学がそんな残酷な構造をしていたとしても「これでいいのだ!」が見つかるといいんです。

僕の場合それが「憎悪」ではなくて「他者への許容」だったというだけの話で、あなたにはあなたの答えがある。

さあ!思考しよう!思想しよう!!

「私は頭が悪いから…」ですって!?

そんなことはどうでも良い!

負の自覚があるのなら努力しよう!!

考えよう!!感じよう!!!

幸福や生きやすさの答えは全て自分の頭の中にあるのだから!!

僕はここで嬉々としてあなた方に問おう!!

是非とも聞かせてほしい!!

「さて、あなたの答えはなぁに?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?