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いつか見た風景 79

「過ぎても及ばなくても」


 空を飛ぶのは怖くない。そのために科学があり、誰かがパラシュートまで発明した。苦しみを和らげるために薬が発見され、喜びを増幅させるために娯楽が誕生した。私は今、空を飛んでいる。雲海を見下ろし、合間に覗く都市のビル群から適当な着地点を探している。近くに公園でもあれば、今日はそこで昼飯でも食べようか。
    
               スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



 今の私にとって日々の人生の物語を構成する要素はそれほど多くはない。食事に睡眠、散歩に読書、入浴に排便、それからせいぜいテレビにネットくらいなものだから。そうだった、それぞれの合間や最中に訪れる正体不明の知人や友人、それから怪しい家族の存在も忘れてはならない。何より私の生活を多面的にサポートする介護施設のヘルパーさんたちには感謝の気持ちでいっぱいだ。毎日のように私の人生を刺激する大事な生の秘密情報を提供してくれているからね。

 ヘルパーさんが日替わりで私に伝えて来る情報は、例えばこんな感じだよ。
「自転車のヘルメット着用って、本当に義務化されちゃうんですかね」
「マスク解禁で意外なものが売れ出して、色付きレンズメガネなんですって」
「チャットGPTって知ってます? 知りたい事は何でも直ぐに答えてくれる…」
「カレー屋さんも将来はAI がお客それぞれに合ったスパイスを調合するって」

一般的には「何でもないただの世間ばなし」と認識されているこの手の生の会話の情報の中にこそ、私の日常を大いに刺激し、劇的に変化させるトリガーが常に潜んでいる事は言うまでもない。

 そうなんだ、シートベルトの着用義務化が始まった時代には私はまだまだ若かったから、そこまで考えが及ばなかったけどね。人の命を守るのは大事なことだって分かっていてもちょっと面倒くさいなって思ってたんだよ。保険会社の陰謀だなんて勿論信じちゃいないけど、やたらと取り締まりがうるさくて、免許の減点も何だか馬鹿馬鹿しいから、いつの間にかシートベルトをしっかりと締める事が当たり前の日常の習慣になっちゃっていたよ。

 気づくべきだったねよね、その時にさ。車の次は自転車、自転車のヘルメットが当たり前になった次はきっと歩行者だって。私のような老人はたぶんシルバーヘルメットじゃないかな。年寄りには特に取り締まりが厳しいだろうね。3回で免停、つまり外出禁止とかになったりするんだよ。被害者向けにも加害者向けにもいたずらに保険の支払額は増やしたくはないからね。まあそれでも、お洒落なハンチングスタイルのデザインヘルメットでもあればまだマシなのかな。


「最後に自転車に乗ったのはいつだったかな…そうだ最初のデートは自転車で行ったっけ」


 久しぶりにマスクを外して口元があらわになる事には色々と抵抗があるから、他人の視線を無理矢理にでも目元に持って行きたいんだってさ。だから色付きレンズメガネが突然売れ出したんだって。まるでスパイの揺動作戦みたいだけど、ついでにこれまでと違う自分を大胆に演出したりしてさ。ポストコロナの新しい自分、新しいライフスタイルがここにも誕生するって訳だよ。あの精神科医フロイトの甥でもあるプロパガンダの父、エドワード・バーネイズによる巧みな大衆操作の名残りが時を経て様々なカタチで花咲く予感さえして来たよ。

 穀物粥かロールパン程度だった1920年代当時のアメリカ人の朝食を、より栄養化の高いベーコン&エッグへと大転換させた男だよ。食肉加工会社の依頼を受けた彼は手始めに、全米5000人の医師に「健康のための朝食は栄養価の高い高カロリー食の方がいいか」とアンケートを取ったんだ。9割のイエス回答を武器に彼は新聞記事で「朝食にはベーコンエッグを、全米の医師が推奨」と花火を打ち上げた。そうそう、ウチでは悲しい事に何十年もこのスタイルが変わらなかったけどね。一度習慣になっちゃうと、そいつを覆すのには思った以上に大胆な戦略が必要だからさ。

 チャットナントカは「知りたい事は何でも」ってのがミソだよね。何でもって言うから、本当に何でもって思っちゃうからさ。でも考えたら随分と限定的なんだよね。つまりその何でもって言うのはネットに上がった情報なら何でもって意味だからさ。ネットに上がらない、或いは上げられない大事な情報は出てこないんだよ。それに何よりネットはとっくにアルゴリズムに支配されているからさ、だから出て来る情報の質も量も順番も誰かの思うがままなんだ。「それは誰なんですか?」なんて聞いても無駄だよ。それはさ、詰まるところ「私であり、あなた自身」なんだからね。


「あなたの人生に欠かせないスパイスのお味はいかがですか?」


 ハンチングスタイルのグレーのヘルメットを被り、大きな黒のフレームに薄いブルーの色付きメガネをかけて駅前のカレー屋に私は足を運んだ。「いらっしゃいませ」と、個体識別用カメラが内蔵されたスパイスAI ロボットが私の顔を覗き込み握手を求めて来た。どうやら私の見た目の判断と同時に脈拍や血圧、さらに発汗状況といった基本のデータを収集しているようだ。きっと私の個人情報にもアクセスしているに違いない。最近受けた検査や処方されたクスリについての情報に。もしかしたら飲み忘れたクスリの成分や回数まで既に把握されているかも知れないな。

 テーブルに座りしばらく待っていると運ばれて来たのは私限定仕様の南インド式の特製スープカレーだ。クミンシードを少々多めに、それからちょっと…と口を濁した。「でもご安心下さい、お客様に最も適した最高比率の調合で調理してございます」と案内があった。この匂い、どこか懐かしい長年私の枕にこびりついた記憶の成分に限りなく近いなと、私は直感的にそう思った。新たな旅路の予感がした。調子に乗って食べ過ぎて腹を壊さないようにしないとな。



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