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いつか見た風景 94

「午後のしじまに奇想曲」


 多くの真相が行方不明になっている。証拠となる記憶の断片と共に。だから昨日の午後に私はリビングのソファに寝そべってモーツァルトのレクイエムを聴きながら脳の初期化を試みた。様々な映像や音声、さらにテキスト情報が、私に意図的に並べ換えされないように。

                スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス


「石化した記憶の卵を割ってみたんだよ」


 目は閉じていた。ぼんやりとはしていたが妙に頭は冴えている。背中はソファの背もたれについていたはずだったが、感触はそれとは明らかに違った。革張りの椅子に拘束ベルト、それと微かな振動を体が感じていた。動いている。恐る恐る目を開ける。目の前にはダッシュボード。外は眩しくてよく見えない。スピードの加速が感じ取れた。私は拉致されているに違いない。隣で運転する何者かによって私はどこかに連れ拐われている。

「失敗に達人はいないんです。人は誰しも失敗の前では凡人だから」と、女は唐突に私に向かってそう言った。アレクサンドル・プーシキンの言葉ですってと。夏のこの季節に黒の革手袋でハンドルを握っているその女は、私の反応を待つことなく続けた。「その意味ではアナタは稀有な存在です。ところでアナタ自身はその事を自覚しているんですか?」と。女は私を〈失敗の達人〉と呼び、褒め称えた。だから達人の意見をちょっと聞かせて欲しいんだと。

 プーシキンが大昔に詩や戯曲、物語なんかを書いていた事は何となく知っていた。勿論私は熱心な読者なんかではない。「スペードの女王」「ボリス・ゴドゥノフ」「太尉の娘」…トランプ賭博や暗殺、反乱や愛に尋常でなくのめり込んでいった男たちの物語。それぞれが素晴らしい作品である事は言うまでもないけどと前置きをして、だけど今問題にしたいのは彼の別の作品「モーツァルトとサリエリ」なんですと女が言った。


「記憶のノイズが奏でる奇想曲〜私をどこに連れてくの〜」


 高速を降りしばらく走るとウィーンバイオセンターと書かれた駅舎が見えた。周囲の IT 関連やバイオ企業のビルが目に飛び込んで来る。何だか Netflix の欧州ミステリードラマの中にいるようだと、私は運転席の女に言いかけた。緩やかな坂の先に公園墓地が見えると静かに車は停車した。ここはモーツァルトが最初に埋葬された聖マルクス墓地だと女が言った。

「葬儀の参列者は誰もいなかったって。奥さんのコンスタンツェと義理の妹のゾフィーだけ。貧乏で借金まみれだったから葬式代はパトロンの男爵に頼んで援助してもらったのよ。それでも5人一区画の共同墓地に」と、女は少し神経質な口調で早口に話し続けている。私と歩調を合わせるのが苦なのだろう。時折り辺りを探るように私の前で体を一回転させながら。 

「そのゾフィーの証言によると、モーツァルトは死ぬ少し前から首の周りがパンパンに腫れていたそうよ。死因は長い間謎だったけど、そうそう、ある研究機関がね、100を超える可能性を探った事もあったそうよ。中にはトンカツ説もあったって。モーツァルトが大好物だったポークカツに寄生する毒虫が原因かも知れないって。結局リウマチ熱とか連鎖球菌喉頭炎だとかに落ち着いたみたいだけと。でも知ってるでしょ毒殺説の事は。誰かに毒を盛られたってモーツァルト自身がそう言ってたって。全ては奥さんの証言から始まったのよ。それから彼女はこうも付け加えているの、彼の才能を嫉妬する誰かにねって」


「彷徨う陰謀説」


「あっという間に噂は広がったの。当時のウィーンはこの話で持ちきりだったらしいけど、一体誰が最初にサリエリが怪しいなんて言い出したのかしら。噂はどんどん膨れ上がって、ある事ない事が混然一体となって、真実が如き一つの物語が出来上がっていったのよ。サリエリが密かに何人かの音楽仲間と一緒に埋葬に来ていたとか、ロッシーニが直接サリエリを問い詰めたとか。ベートーヴェンまでもが私も実際そう思うとメモを残していたって。でも何で? 彼は確かサリエリの弟子だったはずでしょ…」

 嘆きの天使像が記念碑に寄りかかっているように見えた。かつてこの辺りにモーツァルトの墓があった事を思い出してもらうために。実際には正確な場所も遺骨の有無も特定などは出来ないと言うのに。私は花束も線香も、それからお祓い用の塩だって持って来なかった事を一瞬悔やんだ。いや、そんな準備が出来るはずがない。何しろ私はこの女に拉致同然でココに連れて来られたんだから。

「でもね、これだけは確かなの。夫の死後に財政的な問題を抱えていたコンスタンツェは様々な手を使って見事に危機を乗り越えていったのよ。モーツァルトが非常勤の室内作曲家として皇帝に仕えていたと訴え未亡人年金が支給されたり、残された作品の演奏会やら出版、更に様々な慈善活動を通じて多額の報酬を得ていたらしいって…何しろ例の陰謀説で注目を集めれるだけ集めていたから…」

「それからこんな話もあるの。実際モーツァルトの葬儀に参列していたのはサリエリの方で、コンスタンツェは末息子のフランク・クサヴァーと一緒に友人宅にいて葬儀には来なかったって。それにクサヴァーはモーツァルトの子ではなく彼の一番弟子のジェスマイアーの子だって話もあるくらいだから。ほら、モーツァルトの遺作の〈レクイエム〉を完成させた男よ。実際彼から頼まれたかどうかも怪しいものよね」

「ウィーンを中心にモーツァルトの再評価が高まったのに時間はかからなかったって。当たり前よね、注目の的だったもの。皮肉な事に彼より遥かに地位も名声もあったサリエリだってコンサートでレクイエムを演奏しているの。世間や仲間の音楽家たちに疑惑を向けられている中でね。実際には彼はモーツァルトを高く評価していたし、生前モーツァルトの方だってサリエリと自身のオペラ〈魔笛〉で共演したがっていたから不思議でも何でもないんだけど。それに二人の共作だって見つかってる。〈オフェリアの回復した健康のために〉ってタイトルのカンタータよ。しばらく声が出なかったソプラノ歌手のナンシー・ストレースが舞台に復帰した事を祝福して二人で作ったって」

「世間からの誹謗中傷が原因で、心を蝕まれたサリエリがついに精神病院に入ったって噂が流れたの。そこで古くからの音楽仲間に罪を告白をしたとか、殆ど廃人同然で言ってる事が支離滅裂だとか、様々な憶測が噂に拍車をかけ始めたてけど、実際は悪化した痛風の治療のためのただの入院だったのよ」


「物語はどこに行きたがってるの?」


 つまり君はこういう物語を語りたいんだねと、私は彼女に言った。35歳で死んだ若き天才モーツァルトの、その謎の死には彼の妻のコンスタンツェが大きく関わっていたと。サリエリによるモーツァルト毒殺説は今では荒唐無稽のゴシップで、よく出来たエンターテイメントだと皆んなが認知してる今だからこそ、もっと大胆で超絶技巧に溢れた新解釈に基づく作品が欲しいって。プーシキンの劇詩をリムスキー・コルサコフがオペラに書いた時代から、20世紀になって舞台や映画に何度も何度も繰り返されても、それは退屈な一つのクリシェな作品にしか思えないからって。

 公園墓地の近くのカフェのテラス席で、私は彼女と向かい合ってコーヒーを飲んでいた。沈黙がしばらく続いている。若い店員が他に注文はありませんかと聞いて来た。カフェのお揃いのエプロンなのか、店員の娘さんの胸元には可愛らしい歌姫のイラストに英文のロゴデザインが踊っていた。ナンシー・ノウズ・ザ・トゥルース、そう書かれていた。そうか、そういう事か。そのタイミングで私の脳内を細かな記憶チップが光を放ち走り回り始めていた。

 いつもの制御不能なクリシェなこの状態を私も度々訝しんでいる。記憶チップはSIM カードのように脳内でルービックキューブをようなシルエットに変貌していた。どうする事も出来ない。何で直ぐにこうなってしまうんだろうかと頭を抱え、ぐるぐると旋回するルービックキューブに集中していると、俄かに辺りが騒がしくなっていた。気づくとテラス席の一番奥のテーブルで男女のカップルが激しく口論している。二人の顔には、見覚えがあった。

「お、おまえ、何でこんな時にポークカツなんて注文してんだ!」
「だってアナタ、コレ好物だったでしょ…」
「生焼けじゃないだろうな、旋毛虫はいないだろうな、トリキネラ属の寄生虫」「死んでもトラウマって残るのね、大丈夫よ、2回も殺したりはしないから」
「…ところで一度聞きたかったんだけど、おまえ、不倫してたって?」


「化石化した記憶チップたちがパズルのようになっている」


 ほらね!って顔で彼女が私の顔を覗き込んでいる。私は黙って若い店員にポークカツの注文を入れ、彼女に向かってこう言った。「次はイギリスに飛ぶんだろう、ナンシー・ストレースに会いに。彼女が真実を知ってるはずだからね。ところで一つ提案なんだけど、今この場で彼らに直接聞いたらどうなのかな?」



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