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いつか見た風景 10

「忘却の作法」


 忘れたくないものたちには、それぞれに理由がある。それぞれには背景があり、プロセスがある。何よりそのものたちが持っている固有の匂いが存在する。だからそのものたちを忘れないために書くこの記録には、タイトルが必要だ。 

                   スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス

 今思い浮かぶ私のお気に入りのタイトルはと言えば、アンソールの「酢漬けのニシンを奪い合う骸骨たち」、ダリの「記憶の固執」、フリーダ・カーロの「死を考える」、シャガールの「散歩」辺りだろうか。好みのタイトルと好きな作家とは必ずしも一致はしないが、それでも共に私を楽しましてくれている。

 何しろ私の日常は、息子を名乗る怪しい男と夕飯を共にして酒のつまみの「酢漬けのコハダを奪い合い」、私より二回りも若い主治医の先生から私の「歪んだ記憶への固執」を度々指摘されている有様だからね。それに夜中に私の寝室に忍び込んで来る死神の奴に、彼が主催する「死を考える」市民講座に参加しないかって執拗に誘われたりしてるんだ。まあ次の日には死んだはずの女房のカヨコと河川敷の遊歩道を優雅に「散歩」と洒落込んで、気分転換して色んなストレスは溜めないようにしてるけどね。


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 私はアルツハイマー、どうやら脳の海馬が加速度的に萎縮しているらしい。 海馬と言う奴は写真で見ると全く持ってタツノオトシゴで、あんまりそっくりだから女房と一緒に笑ったほどだ。

忘れると言うことは決して悪いことばかりではない。色々と困ることは実際多いけど、困ることで周りが良く見え出したりもする。大事なことを再認識させられるのはもっといい。

そうそう、話しは変わるけど、絵画の起源について私が気に入っている説があるんだよ。その昔、愛する男の影が壁に映り、それを見た若い女が男の横顔を壁になぞったのが始まりだって。つまり、男がいなくなっても壁になぞった跡が残っているから、男の面影は永遠に残るんだ。壁に残った男の横顔、それが全ての絵画の始まりなんだよ。

気まぐれで描いたかも知れない。悪戯で描いたかも知れない。2人の関係だって、今となっては分からないけど、だけどその瞬間は女にとって大事な何かがあったに違いない。男の顔に触れるように壁に線を描き入れる。その線は愛そのものだったんじゃないかな。女の今であり未来でもある。そこから全てが始まった。

 壁に描き入れた線は何を物語っていたんだろうか。期待とか不安とかだったかも知れないな。願いや決意だったかも知れないか。意味とか意味の喪失とか、実存とか不在とか、まあそんなことの全てがここから始まったってことなんじゃないかな。


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ところで私の好きな全ての絵画は、私にとっては立派なバーチャルリアリティなんだよ。いや、私にとっての便利なVRと言い換えてもいい。つまり、その気になればいつでもその世界の住人になれるからね!お気に入りの絵画の中に出たり入ったり、この少しばかり中毒性のある習慣は、脳みそへの大事な有酸素運動みたいなものだって私の主治医も言ってたよ。


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