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いつか見た風景 45

「健全な無関心推奨週間」


 いつもより散歩の足を伸ばしてよかった。さっきトイレを済ませておいてよかった。保湿クリームを顔や手に忘れず塗っておいてよかった。年寄り臭い格好じゃなくてよかった。黒でコーディネートしていてよかった。ベンチの隅っこに座っていてよかった。最初にジロジロ見ないでよかった。さてさて、最初の一言目は何と言って声をかけようか?

                スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス



 ぼんやりしている心にこそ恋の魔力が忍び込むって言ったのはシェイクスピアだったかな。散歩の途中でベンチに座ってぼんやりしている私に、この夏一番の思い出が飛び込んで来る予感が全身を突然包み始めていた。同時にその記憶が夏の終わりの頃までには私の脳内からすっかり消え落ちてしまうであろう不安がゆっくりとコーティングされて行く。だからと言って焦る必要はない。今この瞬間に集中するのだ。

 恋の始まりの予感と、その恋の記憶が薄れやがては消滅してしまう不安の狭間で揺れ動く、今の私の心情を何とか記録に残せないものだろうか。何より今この瞬間の一切合切を。結婚前のシャガールが彼の誕生日に花束を持って現れた恋人ベラと自分の姿をキャンバスに描いた時のようにさ。多少のデフォルメは構わないじゃないか。その瞬間の気持ちこそが大事なんだから。恋って言うのはつまりさ、空中に舞い上がって、あり得ないほど体がねじ曲がってもおかしくない状態の事なんだよ。



 あれれ、ひょっとしたら私は恋をしているのかな? この年で、この状況で、このスピードで。だとしても相手に簡単に悟られるようなヘマは犯してはないはずだ。十分過ぎるほど健全な無関心さを保ちながら私はとにかく最初の一言を探していた。それにしても彼女はどうして私の隣に座ったのだろうか。もう少し歩けば空いているベンチだってあるだろうに。疲れていたのか、足が痛くなったのか、それともやっぱり私の隣にわざわざ座る必要があったのだろうか。右半身で感じ取れる気配によると彼女もまた私同様十分過ぎるほどの健全な無関心さをしっかりと保っているように感じられた。

 少し経って彼女がスマホを取り出して何やら画面をスクロールし始めた。何かをチェックしている感じで、時折りタップしてはまたスクロールを繰り返している。何をチェックしているのか正直気になったが、まさか彼女のスマホを体を乗り出して覗き込む訳にはいかないから、ここはじっと我慢した。それでも何度か辺りの景色を眺めるフリをして、少しばかり彼女を観察してみたりもした。

 年の頃は30前後か、いやもっと上とも言えるし、もっと下とも言えなくもないな。黒髪のショートで別段変わった特徴はないな。強いて言えばネコのような印象だ。犬でもウサギでもないからね。だから勿論シカでもキリンでもない訳だよ。哺乳類である事に間違いはないけど、もっと良く見たらもしかしたら良く似た魚がいるかも知れない。おっと、何をくだらない事に貴重な時間を使っているんだ。限られたこの瞬間をもっともっと有意義に過ごさなければ。

 そうだ一つ仮説を立ててみるとするか。年齢は29歳、名前は仮にベラと呼んでおこう。ベラは三姉妹の長女で幼い頃から責任感が強かったんだ。母親の言うことは何でもちゃんと聞いていたから下の二人の妹たちの面倒も良く見ていたんだよ。ベラが高校生の時に両親が離婚して姉妹は母親と共に実家で小さな居酒屋を営むおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らし始めるんだ。

 自由奔放で何事も積極的な妹たち。一人は本格的にダンスに、もう一人は芝居に夢中になって学校の部活で共に夜遅くまで汗を流す毎日だったから、居酒屋の手伝いにはいつの間にか自然とベラがついていたんだ。ベラは特におじいちゃんと気が合っていたんだよ。お店のカウンターの中で黙々と料理を作るおじいちゃんとは対照的におばあちゃんは気さくで面倒見の良い天性の女将タイプで常連客から圧倒的な人気があってさ、素行の悪い酔っ払いを平気で怒鳴りつけたりすると客から拍手が起るほどだったんだ。

 何年か前におじいちゃんが体を壊して入院するとあっという間に死んじゃってさ、大好きだったおじいちゃんだったからベラが相当なショックを受けたのは想像に難くないね。気丈に店を続けるおばあちゃんを手伝ってベラは毎日厨房に立ってるんだ。おじいちゃんの自慢の料理の数々はベラがとっくに受け継いでいたから味が変わったなんて文句を言う客は勿論いなかったよ。だけどある時ベラは思ったんだ。ここの客は年寄りが多いからさ、もうちょっと塩分やら糖質やら気をつけてあげた方がいいんじゃないかって。



 だからさ、さっきからスマホの画面をスクロールしてたのはきっとそのレシピの研究で何かのヒントでも探していたんじゃないかな。年寄りにも安心安全な、それでいて味が全く見劣らない方法をね。何と健気で優しい娘さんなんだ。ここは私も一肌脱がないといけないんじゃないかな。だけど突然「私と一緒に新たなレシピに挑戦してみませんか?」なんて声をかけたら全くの不審者だからね。ここはやっぱり慎重に事を運ばないと。それにコレはベラのためでもあると同時にむしろ私自身の新たな挑戦でもあるからさ。実はさ、時々ショートステイでお邪魔する施設の食事を居酒屋メニューに大改革した方がいいんじゃないかなって密かに思っていたんだよ。

 味もそこそこ、栄養価もしっかり考えられているのは理解できるんだけどさ、だけどやっぱり何だか味気ないんだよね。施設の食事って域をどうしても越えられないって言うかさ。せめて夕飯だけでもどうにかならないかなって。そこで提案したかったのが居酒屋メニューなんだよ。イワシの梅煮のお通しにマグロの赤身に山芋、鶏肉にニラと椎茸とゴマを混ぜて作った大ぶりのツクネとかさ。魚介類をトマトペーストで調理したちょっとエスニックな一品だって嬉しいね。そうそうそれから器が大事なんだよ。ベージュのプラスチックはダメだよ。柄だってやる気のない幾何学模様じゃ味気のなさを強調するだけだからさ。合羽橋に行けばいくらもあるからさ。洒落た居酒屋に負けないプラの食器がね。

 とにかくベラの悩みを聞いてあげたいし、こっちだって話したい事も相談したい事も色々あるからさ、まずはお茶にでも誘ってゆっくり落ち着いてから二人の距離を縮めようかなって思ったんだよ。勇気を出して「その先のカフェでお茶でもいかがてすか?」って誘ったら意外にも直ぐにOKが出たよ。この出会いの最初の健全な無関心が功を奏したようでさ。それで二人で並んでカフェに座ったまでは良かったんだけどね。その後がどうもしっくり行かなくてさ。会話の始まりの難しさって奴に直面する事になったんだよ。私も相手を傷つけないように慎重に丁寧に言葉を選んだつもりだったんだけどさ。

「ベラさん、まずはその、おじい様の事、大変残念でした。だけどアナタの勇気と向上心には大変感服していますよ。それで、出来れば、その、お手伝いをさせて頂きたいと思っていまして、いやいや遠慮はいりませんよ、それに私の方でも少々お頼みしたい事がありましてね…」



 ベラは私の大のお気に入りの金曜日のヘルパーさんが急な用事で来られないから、その代役で今日の私の散歩に付き添っていたらしいんだよ。にわかには信じられなかったけど、まあきっとそう言うことなんだろう。嘘を言ってるようには見えなかったからさ。それでも私が密かに抱いている金曜日のヘルパーさんへの恋心を悟られることはなかったと思うからさ、そこの所はちょっと安心しているんだ。




 


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