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#007風俗嬢とお笑い芸人と差別

男と女では風俗利用実態が違うらしい

記事を書き始めたきっかけは、「女性用風俗」を利用する女性たちの話を後輩が教えてくれたことから。

彼女たちはサービス従事者(男性)を「推しぴ」や「彼ピ」と呼び、単純に性的欲求を満たすためだけにサービスを利用せず、疑似恋愛を楽しんでいるらしい。

ここで、最初に会話に挙がったのは、男性は性的サービスを提供する風俗店で働く女性を「風俗嬢」、キャバクラのような水商売店で働く女性を「キャバ嬢」と呼ぶのに対し、女性たちは風俗店で働く男性もホストクラブで働く男性も「推しピ」、「推しメン」、「彼ピ」のように呼ぶというのは、ナチュラルに社会に浸透している男尊女卑の思想が顕在化した形なのでは?ということ。しかし、この話をそのまま一側面から捉えて終わらせるのはいかがなものだろうかとも思った。

なぜならばこの話は、僕らがどこか遠くから、違う世界を眺めているかのように性産業の現場で起きている事象を捉えた解釈であり、実際に性産業の現場で働く人々が社会や利用者からどう扱われたいのか、ということへの思考が抜け落ちているように気がする。

確かに、職業によって人を差別することはあってはならないし、女性よりも男性が優れていて、女性を無闇に卑下するなどもっての外だと僕自身強く感じる。しかし、風俗店で働く女性たちは、女性用風俗店で働く男性従業員のように「推し」や「彼女」と呼ばれることを望んでいるのだろうかとも思う。

ここで言いたいのは「人を職業や性別で差別しない」というのはその職業に従事している人の「呼び方」を変えることでも、「呼び方の違い」を切り取って、「男尊女卑だ!」、「女性の権利を守れ!」と遠くから声高に叫ぶことでもないのではないんじゃないかってこと。

女性芸人の「容姿ネタ封印」は社会を良い方向に導くのか

先の話に関連して、もう一つの切り口になるのが「女性芸人の容姿ネタ封印」について。

2021年4月には人気お笑い芸人「3時のヒロイン」のメンバー福田さんがTwitterで「容姿に言及するネタを捨てることにしました」と発信し話題を呼んでいた。

※参考記事
3時のヒロイン “脱・容姿ネタ”の真意「視聴者に分かってほしいのは…」 

この件についても、やっぱり上辺をすくって遠くから、容姿ネタを扱うことの善悪を叫んでいる人々が多いのではないかと感じる。確かに、「容姿」で人を一方的に差別したり、蔑むのは決して褒められた行為ではない。しかし、ここでも一側面を捉えて“本人不在で善悪二元論”を展開するのは、社会を良い方向に進めることに直結しないと思う。

例えば、「他者の容姿をイジること」や「自らの容姿で笑いを取ること」、「ブスやデブを卑下する行為」は全て社会に悪影響だとする風潮が強くなっていくとした中で、それに伴って社会や個々人の「美醜の基準」までがすぐにガラッと変わるのか。

「容姿」についての言及がどんどんし難い社会になっていく一方で、その社会に暮らす人々が持つ「美醜の基準」はさほどこれまでと変わらない状況化に置かれた「自分をブスやデブと感じている人々」は果たして本当に生きやすいのか。

自分が求める「美の基準」に達するために太っていることが嫌ならばダイエットをすればいいのかもしれない、顔のパーツで気に入らないことがあるのならば整形手術をすればいいのかもしれない。

だけど、その根気やお金を出し切れない人だっている。そんな人々が自らをありのままで愛そう、自らのありのままを愛してもらおうとする術の一つがもしかしたら、「容姿で笑いを取ること」なのかもしれないと考えてみることだってできるように思う。

「個性の尊重」は常に双方向であるべき

社会に溢れる様々な差別問題の解消方法について、多くの人が試行錯誤を続けているのは紛れもない事実。ただし、この「試行錯誤」とは誰かの意見に無思考で人々が後乗りし、風潮という大きな流れを作ることではないと僕は思う。

風潮や世論というのは確かに社会を変える大きなパワーを持っている。しかし、その潮目のパワーは時に社会を生きる一人ひとりの声を溺れさせてしまっていることもあるんじゃないだろうか。

例えば、朝の日本テレビ系情報番組「スッキリ」でのある場面がこんなニュースになっていた。

※参考
春菜「マイケル・ムーア監督じゃねぇよ!」のネタに、アリアナが笑わなかった訳に考えさせられる。 

「スッキリ」のMCを務めるお笑い芸人の加藤浩次が、同じくお笑い芸人の近藤春菜を映画監督の「マイケル・ムーア」や映画のキャラクター「シュレック」に似ているとイジる鉄板ネタトークにゲストとして来日出演した歌手のアリアナ・グランデさんが一切、笑わなかったいうものだ。

これに対し、SNS上では「容姿や体型をイジって笑いを取るのは個性を尊重していない」、「アリアナの対応は素晴らしい。日本に足りない姿勢はこれだ」というような意見が多く投稿された。しかし、この一場面は果たして本当に「個性の尊重」を象徴する場面なのだろうか。

僕個人としてはアリアナ・グランデさんの対応は素晴らしいと思う。「容姿や体型をイジって笑いを取ることを自分自身が是としない」という信念を貫き、自らが感じる「あなたは可愛い」という意見をしっかりと相手に伝えている。では、これによって相手の個性は「尊重」されたのか?

もしかしたら、お笑い芸人として近藤春菜さん自身が鉄板の武器にしてきたネタであるからこそ、アリアナにも笑って欲しかったかもしれない。

お世話なっているMCの振りを無駄にしたくなかったかもしれない。

はたまた、鉄板の容姿ネタを披露するたびに彼女自身はすり減り、ネタに笑わず否定的な態度を示したアリアナ・グランデさんに心から感謝したかもしれない。

この場面における近藤春菜さんの真意は、彼女本人に聞くことでしか知る術がない。

つまり、本当に「人の個性を尊重する」しようとするならば、アリアナと近藤春菜さんでコミュニケーションをすることでしか「双方の個性の尊重」はなし得ない。

もちろんこの番組収録という状況下において、それを行うのは難しい。しかし、この一場面の上辺をすくって、「日本はアメリカと比べて個性を尊重しない国だから嫌い」、「女性が一番嫌がる容姿イジりをした加藤浩次は最低だ。日本の恥だ。」と無思考にアリアナの個性や信念に後のりする行為は、社会を生きる一人ひとりの溺れさせてしまうだけなのではないだろうか。

シンプルで当たり前な社会の進め方に価値がある

人種差別、性差別、職業差別に世代差別。
いつでも、差別は「人がふたり以上」いて生まれる。だからこそ、この差別問題に向き合い試行錯誤しながらより良い形で社会を前に進めていこうとするならば、私たちにできることはきっといつでもシンプルだと僕は思う。

虐げられた状況でも声をあげた人々がいるからこそ、僕らは「差別」という言葉にこれまで以上に敏感に思考する機会を得ている。そんな今だからこそ、世に蔓延る「差別」に対し、己だけのものさしでそれの善悪をはかり、まるで神のようにSNSで意見を発することだけに価値を感じるべきではない。

社会をより良い方向に進めるために本当に必要なのは、僕らが自分の目の前にいる人に対して、「自分がされて嫌なことはしない」ただそれだけだ。もちろん、自分自身の想像力には限界がある。だから、もう一歩、私たちは目の前に人に対し、「私はあなたにどう接するべきか」と優しく聞くことを始めていけばいいんじゃないだろうか。

「過去に黒人に暴力を振るわれたから、全ての黒人は危険だ」

「元風俗勤務を悔んでいる友人がいるから、風俗勤務の女性全てが同じはずだ」

「根性のない部下に苦労したから、全ての若者は根性がないはずだ」

一つの事例・事象の拡大解釈を止め、一人ひとりが今、目の前のいる人に向き合う。自分が誰かにそうすること、その誰かが、また誰かにそうすること、そのシンプルな積み重ねだけが、社会を生きる一人ひとりの声を溺れさせずに前に進めていくんだと僕は信じている。

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