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勝手に他人をかわいそうな人にしてしまう癖

勝手にかわいそうなストーリーを他人にあてはめてしまう

 寒くなる時期に思い出すのは、大きな鍋で煮込まれたおしょうゆの匂い。

 まだ幼いころのお話しです。

 お母さんに連れられていったスーパーの駐車場に、玉こんにゃくの屋台が出ていました。冬が近づくとやってくるその屋台は、家では見たことがないような大きな両手鍋からグツグツと白いゆげを立ち上らせていて、子どもながらにおいしそうだなと思ったものです。

 ただよう匂いに誘われて、「食べたい」とねだってたびたびそれを買ってもらっていました。わりばしに4つくらいささった玉こんにゃくはよく煮込まれてすっかり茶色、熱々のままかじるとなぜだか歯がヒンヤリと感じて不思議だったことをよく覚えています。

 いつものように玉こんにゃくを買ってもらい、ほくほくとした気持ちで車の中で食べていたら、目の前をひとりのおじさんが通り過ぎていくのが見えました。その手にはわたしとおなじくこんにゃくがささったわりばし。

 だんだんと脳みそが回転していきます。わたしはお母さんと一緒に食べているけれど、あのおじいさんはひとり。わたしは暖房のついた車の中にいるけれども、あのおじいさんは寒い中を歩いている。どうしよう、寂しいと思っているかもしれない。わたしが一緒に食べてあげたい。歯がヒンヤリ感じることを子どもの特権でおもしろおかしくふざけながらびっくりしたところを見せてあげたい。そして笑ってほしい。さみしくなくいてほしい。

 まったくばかげた考えだというのは、当時も気がついていました。だって、その人はひとりで歩くのが好きかもしれませんし、家に誰かが待っているかもしれない、もしくは、忙しい中でやっと家までの帰り道のひとりの時間を楽しんでいるかもしれません。そもそも、ひとりでいるとさみしいなんて決めつけはもってのほか、わたし自身ひとりっこなのでひとりでいる時間が大好きです。

 それは十分わかっているはずなのに、あのおじいさんのことが気になってしかたがありません。

 今になって考えてみれば、育った家は家族団らんがなかったので自分こそさみしいじゃないかと思うのですが、当時はそれに気づきもしなかったのです。それに、一緒に食べてあげたいなんて、自分が一緒にいたからなんだっていうお話ですし、おじいさんにとってみたら勝手にさみしそうな人にされていい迷惑です。

 わたしは当時、人と話すことが苦手で(今もわりと苦手ですが)休み時間にひとりでいると思われたくなくて読書に熱中している人の役を演じていたのですが、自分は勝手に他人に悲しいストーリーをあてはめてしまうくせに、自分自身はかわいそうな人と思われることが恥ずかしかったのかもしれません。

 こんな、余計な空想にたびたび苦しめられます。

自分で悲しいストーリーにしてしまう癖

 こういった気持ちは、ときどき自分自身に向かって発生することもあります。

 たとえば、お風呂から出て髪をかわかしているとき。前髪が左に曲がってしまうことにイライラしてドライヤーで何度も伸ばしていると、ふと例の気持ちが湧き出てきました。

 「自分のくせに、クシつきのドライヤーなんてつかっちゃって」

 「自分のくせに、マイナスイオンをONにしちゃって」

 「自分のくせに、髪型とか気にしちゃって」

 髪を乾かす。なんてことないただの日常です。それなのになぜだか急に、自分がかわいそうなような、いじらしいような、どうしてあげたらいいのかわからない状態がやってくることがあります。自分をどうしてあげたらいいかわからない、自分は自分だから自分に声をかけてあげることも一緒にいてあげることもできない。でもなんだかかわいそう。自分だからなんだっていうんだ、自分のくせに、自分のくせに、自分のくせにーーーー。

 ハッと鏡を見ると、ドライヤーを持ったまま呆然と立っている自分がうつっています。深呼吸をして、「なんでもない、なんでもない、ただの毎日のこと」と頭の中で念仏でもとなえるかのように繰り返して、「なんでもない」という言葉以外のことを考えてしまわないように制御します。

 そう、なんでもないこと、ドライヤーで髪をかわかすなんてなんでもないこと。

ひとりの世界には帰りたくない

 この癖のことをインドカレー屋さんで友人に話していたら、「ドライヤーって言えばさ、さっきエレベーター一緒だった人たちすごい髪型決まってたね」と言われました。わたしの両親くらいの年代のグループで、確かにすごく華やかでおしゃれだったような気がします。これからライブでも行くのかなーいいなー、と思ったのは覚えています。でも、わたしは髪型のことにはなにも気がつきませんでした。これほど、勝手に他人の行動を見ては自分の中で悲しいストーリーを作ってしまうのに。

 そうか、どうやらこの悪いくせは目に見えて楽しそうな人には湧き起こらないようです。

 人が幸せかどうか、楽しいかどうかは他人には見えません。星の王子さまでキツネが言ったように、いちばんたいせつなこと、人の命や感情は目に見えません。確かに、楽しいときには声をあげて笑いますが、悲しいときでもそれに気づかれないようにいつもよりもっと多く笑う日なんて思い出したくないくらいたくさんあります。そういう日に言われる、「今日は元気だね」の言葉。なにもわかってねーなと悪態つきたくなる気持ちを押し込んで返す笑顔。その逆に、ひとりでお気に入りの喫茶店でモーニングを食べているとき、おいしいを噛み締めているとまったくの無表情になること。ラーメンズのDVDを眉間にしわ寄せて真剣に見てしまうけれど心の中では「めちゃくちゃに面白いな」とスタンディングオベーションをしたい気持ちのこと。

 わかりやすく目に見えることだけが現実ではないのに。それに、わたしのように、ひとりでいる時間が1日の半分以上は欲しかったり、ひとりでご飯を食べるほうが安心をするような人なんてたくさんいるのに。

 あんなに真剣に悲しい気持ちになったり、他人を勝手にかわいそうな人に仕立ててあげては胸を痛めて立ち止まってしまうのに、こうして人に話したり、あらためて書き出してみると、「なにがクシのついたドライヤーを使っていじらしいだよな…」なんて笑えてくるのだから、やっぱりひとりだけの世界にはできるだけ帰りたくないなと思うのでした。

 帰り道、ナンをちぎった自分の手からインドカレーのスパイスの匂いがして「手からカレーの匂いがする」とLINEを打ちながら、自分のくせにインドカレーなんて食べちゃって…と一瞬だけ思ってから、なんでもないただの毎日のこと!と力をこめて余計な考えをふりはらって送信ボタンを押しました。

(※2019.12.23「TABLO」に掲載された文章に加筆修正をしたものです)