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軽々しく”死にたい”と言える場所が必要だった日々

死ななくてはならない現実

神奈川県座間市のアパートで9人の遺体が見つかった「座間事件」をきっかけに、SNSでの自殺や自傷行為についての投稿を規制するニュースをよく見るようになりました。

わたしは10代の終わりから10年ほど、新宿ロフトプラスワンなどで開催している心身障害者のパフォーマンス集団に所属して活動をしていました。アルコール依存症、ひきこもり、摂食障害、ネグレクト、不登校、リストカットなどを経験した者が集まり、「生きづらい人間集結!」を合言葉に、自分の過去の病気体験を話したり朗読やお笑いのパフォーマンスをする集団です。その後、「カウンター達の朗読会」という名前で、音楽と朗読とライブペイントのイベントを定期的に開催し、現在は成宮アイコの個人名で文章を書いたり詩の朗読のライブをに出たりしています。
普段なかなか日常では言いにくいネガティブな気持ち(たとえば「死にたい」だったり)を口に出したり、人の声を聞いて「似てる気持ちあるなぁ」と思うことで、生きる気持ちにいずれ変換していけないか模索しています。それは、いったんやりすごすという一時的なことでもかまわないと思っています。

「できるだけ死なないでほしい」と言うと、「生きる権利と同じように死ぬ権利もある!」と反論されることがあります。
ただ、わたしは、死ぬ権利の話をしたいわけではないのです。

「死なないでほしい / 自殺を止めたい」という思いはもちろんありますが、それよりも「死ななくてはいけないほどの状況 / 死んだほうが楽だと思うほどの状況」をなくしたいと願います。

そんな現実があることが我慢できないのです。
これらは似ていますが、全く違うと思っています。

今すぐに死にたい人に、「死なないでほしい」と言ってもその人の心は動かないでしょう。むしろ「なにも知らないくせに勝手なことを言うな」と憤りや悲しみを抱くかもしれません。わたしもこれまでに、かける言葉がない無力感をなんども体験しました。

ですが、死にたくなるほど耐えられない理由が解決したとしたらどうでしょうか。

苦しみは”比較”では計れない

死にたくなる状況……たとえば人間関係、たとえば金銭問題、たとえば暴力。

もっと具体的に言えば、給食の時間に自分の机だけ数センチ離される見えにくいいじめ、風邪で休むと「空気を読め」と罵られるパワハラ、「育ててもらってるんだから感謝しろ」と洋服で隠れる場所をねらって殴られること、家族と縁が切れているシングルマザーが待ち続ける空きのない幼稚園・保育園、やっと決まった派遣先のグループラインでの完全無視、聞こえるように言われる悪口、介護のために辞めた仕事、決まらない再就職と底をつく直前の貯金残高。
こういった、自分にいつふりかかるかもしれない「死んでしまいたいと思わざるをえない」状況。

自殺をしてからやっと、「死ぬ前に相談をすればよかったのに」なんて言うのは、やっぱり反則だと感じます。死ぬ前に相談をすると、「他の人はもっと頑張っているんだから」と言うのはもっと反則です。

現在進行形で死にたいほど苦しい状況にいる人に、恵まれない国のことや他人との比較をしても、「じゃあ頑張ります」とは言わないはず。苦しみは比較するものではないからです。その人その人が持っているそれぞれの苦しみは、本人のものであって、確実に存在している感情だからです。

職場や学校ではとても言えなかった、「寝て起きたらまた1日がはじまる、死にたい」。そんなSNSの書き込みにもらった「わかるwww」「つらたん」の返信。あのとき、同じように死にたい気持ちで生きている人の存在にどれだけ安心をしたことか。顔も知らない誰かに「わかるわー」と軽く言われたとき、解決はしなくても少しだけ大丈夫になるような気がしたのです。

選択肢は削るよりも増やしてほしいと願います。

死なないために、軽々しく”死にたい”と言える場所があのときのわたしには必要でした。

あなたが昔、裏垢で毎日「死にたい」とやりとりをしていた適当な文字の羅列をしたアカウント名のひとりは、もしかしたら裏垢で毎日死にたがっていたわたしかもしれません。

(※2017.11.22「TABLO」に掲載された文章に加筆修正をしたものです)