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『かわいい』のその先の

2022.11.01 火曜日 曇り 11-18℃ お休み

どこで見掛けたのか記憶が不確か、名前もわからず、色も何色と言い切れない柔らかい色合いが魅力的な胡蝶蘭。見掛けてから、ずっと思い続けていたのだけれど、手がかりがなく全く探せずにいた。誕生日月で何かと自分への誕生日プレゼントと言い訳して購入しがちな時期に街でよく見かけるお花屋さんのオンラインショップで見つけた。迷うことなく、すぐにお迎えすることにした。誕生日から2週ほど遅れて、大切に梱包され、6つの花が咲き、3つの蕾のある状態で届いた。                

昨夜、小豆色をした3つ目のつぼみが少し開きかけていて、今朝には胡蝶蘭と認識できるくらいに開いていた。目覚めたばかりというのが似合うような、淡い黄緑色の花びら。ここから日に日に開いて、淡い小豆色とピンクの混じり合った柔らかい色に色づいていく。『なんて かわいいいんだろう』と思ってから、ふと、この花を見てかわいいと思う人は世界にどれくらい居るだろうと思った。そんなに突飛な趣味ではないにしろ、数多ある種類の中から、自分の誕生日にこの花を選ぶくらいの感覚でかわいいと思う人の人口。そこまで考えてから思う“かわいい”の幅広さ。

先日、友人と日本民藝館の展示 柳宗悦と朝鮮の工芸 を観に行った。会場の展示室の手前で、柳宗悦が民藝に開眼することになった朝鮮の工芸についての映像が流れていた。原点の染付秋草文面取壺について、24歳の哲学者として寄稿していた白樺で出会ったものの素晴らしさについて開眼の瞬間を丁寧に言葉にしていて、その熱量に興奮、心から思っていることが伝わってきた。そこまでの展示室で私が かわいい・綺麗・素敵といった万能な言葉を使って物を見てきたことを反省した。その3つの言葉の奥行きの深さに甘えることで、感覚の根幹には触れずに、言葉の奥行きの深い分、表面からは狭い言葉になっている様に思う。
32歳になって10日ほど経ったところの私は、何か琴線に触れた時の感情の起伏をしっかりと言語化できる24歳の柳宗悦に憧れた。

日々、言葉を使って生きている。1人の時も思考は言葉で成り立っている。すべてを安易に済ますのではなく、その先の言葉をつむぎたい。
そのことを、今朝の開花はふんわりと思い起こさせて、感じたことを文章にしてみようと思った。
毎日は思い起こせないほど似たような小さなことを積み重ねだったりして、記憶だけでは繰り返しの様に錯覚して曖昧になっていく、確かにあったはずの感動、安らぎ、癒しはさらさらと流れていく。だから、日記のような、絵葉書に書く手紙のような、エッセイのような自由な形で、取り止めのなく感じられる様な日々の中で、琴線に触れたところを、すくい上げて言葉にできたらと思う。

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