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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.2 第一章

第一章


「よし、終わった。ね、もう行ってもいい?」

 圭が、最後のシールにはんこを押しつけて、やった、とばかりに言う。 西日が柔らかく差し込む店内は、そろそろ店じまいの準備だ。 今日もまずまず。お弁当は三つ残って、ランチの残りは一食分。圭と二人だと余るけれど冷凍にすればちょうどいい。

「いいよ。危ないとこ行かないでね。五時までには帰って」

 外へ飛び出していく息子を見送りながら、石の階段を降りて、道に面して出してある木の看板を「CLOSE」へとひっくり返す。
 この季節の、山はいい。
 鮮やかに光る新芽や、霞のように萌える若葉の木々に、桜や花桃の淡いピンクや濃いぼたん色が彩を添えている。山全体が、春の陽気にさらされて、揺らいで笑っているようだ。

 鎌倉駅から山側へ。中へ入ってちょっと行けば、店舗も姿を消し、途端に静かな住宅街と、山里の風景にとって代わる。点在する寺社を訪れる観光客が時おり通るだけの、静かな道の途中に、美晴の住居兼店はあった。

 石の階段を上って、玄関のすぐ隣、売り物の弁当を置くための作り付けのカウンターを横切り、庭へ向かう。緑の茂った敷地には、カフェのある家と、右手に平屋の離れがある。築四十年の洋風の二階建て家屋と和風の離れの間は、ウッドデッキでつながっていた。ウッドデッキの後ろにある檸檬の木は、今、たわわに実をつけている。明日のマリネの仕込み用に、二つ木からもぎとる。ぷちっ、と小さな音を立てて、縦長の檸檬は手に収まる。その瞬間の、かすかな匂い。酸っぱくて爽やかな香りが嗅覚をくすぐる。美晴は、それを一つずつエプロンの両ポケットに収めると、玄関へ戻りつつ、家屋に沿って花が植えてある花壇の前にしゃがむ。忘れな草の青い花を、少し、手折る。扉を開けて中へ入ると、キッチンの隅に置いてある白い小さな花びんに、それを挿した。

 忘れな草の花言葉はね、真実の愛、そして、記憶。〝私を忘れないで〟っていうのも有名だけど。

 そう言って笑った、彼の優しい笑顔と温かい部屋の空気。花びんに挿された小さな花が揺れるのを見ると、つい、記憶がこぼれ出してしまう。思い出したい訳じゃないのに。もう、ずい分昔のことのようで、薄らいでいるはずなのに。でも、たぶん、どこかでは忘れたくないのだろう。

 小さな花から発せられた思い出を吹き消すように、美晴はキッチンの掃除に精を出す。レンジ周りに、洗剤を吹きかけ、さっとふき取る。花びんの側の窓も、窓枠も、きれいにふく。

 客が出払い仕事を終えた小さなカフェの店内は、みるみるうちにさっぱりとして、今度はプライベートな空間へと、その顔を変える。西日はますます落ちてきて、少し頼りない光に包まれるとき、美晴は天井の明かりを灯す。明かりのもとで、今日の収支をつける。

 ふいに、玄関の鈴がなり、隣の吉村さんが入って来た。ゴム長靴に、つばの広い帽子。いかにも、今、畑から帰って来たばかり、という出で立ちだ。

「美晴ちゃん、これ、ちょっとだけどおすそわけ」
手には、ほんのり紫色にそまったかぶが握られていた。
「わぁ、ありがとう。助かります」

 旬のものを手にすると、思わず顔がほころぶ。これで、美味しい即席漬けができる。でも、生もいいかも、などと、すぐにあれこれと考えが巡る。 吉村さんは、じゃ、と軽く会釈をして店を出て行った。

 かぶをバーニャカウダにして生のまま食べたとき、彼、秀幸さんは眼鏡の奥の目をまん丸にして驚いた。かぶって、本当に甘いんだね。昔、絵本で「おおきなかぶ」を読んだとき、あまいあまいかぶ、なんてあるのかな、と思ったけど、と言って笑った。旬の野菜はね、どれもとっても甘いんですよ、と、美晴はわざとしたり顔で言った。これだったら、野菜嫌いなうちの娘も食べるかも、そう言ってしまってから、彼は、一人気まずそうに料理に視線を移して、他の野菜に手を伸ばした。
 冷蔵庫の野菜室にかぶをしまって、軽くため息をつくと、窓ぎわのテーブルに戻った。

 今日は何だか、よく思い出すなぁ。

 ふと、窓の外に目を移す。ウッドデッキから続く、離れの向こうに、吉村さん家の桜が見える。花ざかりもやや過ぎて、少し葉桜になりかけている。風が吹いて、花びらがはらはらと散っていく。

 きっと、桜のせいだ。桜は、なぜか心をざわめかせる。きれいなのだけれど、見終わったあとも、目に残像が残り、何か思い出しそうな、思い出したくないような、不穏なざわめきを呼び起こす。

 秀幸さんが去ってしまってから、美晴は少しだけ、桜が嫌いになった。少しだけ、というところがくせ者で、でも、やっぱり本当は好きなのだ。毎年、桜が咲く季節を待ち望んでいる自分がいる。初めて、秀幸さんと手をつないで歩いた、夜桜の道を思い出す。

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