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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.29 第四章

 

 そう、遠い初夏の日。東京で、安くて古いアパートに圭と二人で生活していた頃。

 無認可の保育園に入れて、アルバイトと内職をこなしていた頃。すっかり疲れてしまって、ある日、何も持たずに着の身着のまま、鎌倉へ来てしまった。

「急に、海が見たくなったの。何もかもいやになってしまって。バイトも保育園も休んで、圭と二人、何も持たずに海へ来た」

 海開き前で、サーファーはいたが、人はだんだんまばらになっていって、日が傾きかけてくる。

「どうしよう、って思いながらも、もう、どうにでもなれ、みたいな気持ちでずっと海を見ていた」

 何も知らずに、広い海に歓声をあげて向かっていく圭。辺りがうっすら暮れていって、二人取り残されていっても、気づかない。このまま、すうっと波が砂に溶けていくように、静かに、この風景の中へ溶けていってしまいたい。空はピンク色からだんだん淡い紫色に変わり始めている。

「そのとき、知らないおばさんに声をかけられたの。大丈夫? って」

 かけられた言葉の響きと温かさがよみがえる。

「大丈夫? どこから来たの? って。東京。そう答えてから、でも、何か、帰りたくなくって、って言ったら、泊まるとこ、あるの? って聞かれて、首を横に振ったら、親戚の別宅が空いているから、よかったらそこに泊まっていきなさい、って言ってくれたの」

 それが吉村さんで、親戚の別宅というのが、まさに美晴と圭の今の住まいになったのだ。

「こんな小さい子を抱えて、いつまでも海でぼーっとして、少しは考えてあげなきゃ、って軽く叱られました」

 えへへ、と笑った美晴に、カケルもつられて笑う。

「確かに、大胆な母親だ」

「そのくらい、心も体も切羽つまっていたんだと思います」

 美晴は、窓の外を見た。

「そのとき、圭と二人であの離れに寝たの」

 朝露に濡れた木々に囲まれて、ゆっくりと目覚めた朝のことを思い出す。

「何か。久しぶりに、深呼吸したなぁ、って思いました」

 見知らぬ土地で、見知らぬところで目覚めたのに、この安堵感はどうだろう。

「吉村さんが出してくれた朝ごはんも、すごくおいしくて。お魚とか。生き返ったような気がしました」

  私。私も、料理を作る仕事、していたんです。そう言ったら、あら、そう、いいわね、と言って、丸顔がはちきれそうな笑顔を向けてくれた吉村さん。親戚の別宅を譲り受けたものの、リフォームして貸す手間も億くうで、やや困っていた吉村さん夫妻は、そのままの状態で了承してもらうことで、特別に安く住まいを貸してくれる、と言ってくれた。草もぼうぼうで、本当に申し訳ないのだけれど。しかし、そのときの美晴にとっては、まさに渡りに舟で、直感で、すぐここに暮らすことを決めてしまった。



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