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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.6 第一章

 小さな店内は、温かい静けさに満ちていた。南に開いた大きな窓から、日差しがたっぷりと入ってくる。

「すぐに、コーヒーいれますね」

 窓際のテーブルに座って、横の庭に目をやる。雨ざらしのウッドデッキの向こうに、離れの屋根が見え、隣家の桜が見える。さっきの桜ふぶきは、あの木だったのか、と、ひじをついて、その風景を眺める。

「どうぞ」

 コーヒーカップを置きながら、美晴が、ほっと息をつくように笑った。

「圭がね、あ、息子なんですけど、なんかいつもと違う様子で階段駆けあがって来たから、どうしたの、って聞いたら」

 美晴は、キッチンに戻りながら続けた。
「何か、追いかけられてるかも、って真顔で言うから」
 カケルもふっと笑った。

「で、のぞいたら、おれだった、って訳ね」
「もう、本当にびっくりしました」
「おれだって、驚いたよ」

 そう言ってから、一口、コーヒーを飲んだ。

「まさか、あんな大きな子どもがいるなんて」
 美晴は、黙ってこちらへ視線を向けると、いたずらっぽく笑った。

「いくつ?」
「今年、三年生です」
「三年生! 九歳ってこと?」

 そんな年の子どもがいるなんて自分には想像もできない。自分はその頃、どんなだっただろうか。ぽつぽつと記憶にある九歳の頃。

「先輩は?」
 洗い物の手を止めて、うつむいたまま美晴が聞いた。

「その、先輩っていうの、止めてくれない?」

 青春時代なんてとっくに過ぎたのに、そう呼ばれると、何だかくすぐったいような妙な気分を覚える。

「えっと、じゃあ」

 少しためらいながら、彼女はわざとゆっくり言った。

「カケルさんは?」

 仕事に一区切りついたのか、美晴はエプロンをとって、自分用のコーヒーカップを手に、こちらへやって来た。

「番組の制作会社でディレクターやってます」
「へえ! すごい」

 美晴は、カケルの向かいに座った。顔を見ると、次の言葉を待っている。プライベートのことを聞いているんだな、と分かったので、ため息を一つ漏らしてから答えた。

「三十一歳で結婚して、三十三歳で別れました。子どもはなし、現在に至る」
 美晴は、少しほほ笑んで、視線を落としてから、話題を変えた。

「どうして、ここが分かったんですか?」

「この先の山の上の公園で、ドラマの撮影があったんだ。そのとき、バイトの子がここの弁当買ってきてくれて」
「あーっ」
 美晴は声をあげた。

「覚えてます。眼鏡かけて、何か真面目そうな子。弁当、八個ありますか、って、何か追い詰められたような顔して聞いてきた」
「そう、駅で手配してくるの忘れたらしくて、ADに怒られながら慌てて買いに行ったって聞いた」

 美晴は、くすくす笑った。
「おかげで、あの日は即、完売でした」
「売り上げに貢献したわけだ」
「はい」
「それはよかった」

 カケルの言葉に、美晴は静かに微笑んだ。穏やかだけれど、ほんの少し、哀しみを隠している。そんな笑顔だった。
 その顔を見たとき、カケルの中に今まで意識にのぼらなかった違和感が、ふっと舞い降りた。

 何かが、足りない。

 あぁ、そうか。

 男の気配、がないのだ。彼女の背後に。そして、彼女が暮らしているこの空間に。

「子どもと、二人?」

 美晴は、うつむいてうなずくと、まいったな、という風に笑った。そして、少し照れたように言った。

「何でも、見抜かれちゃいますね。カケルさんには」

「そうか?」

 カケルは、ふっと笑って目線を落とした。

「何か、昔から、そうだった」

 そう小さくつぶやいてから、美晴は明るい、とも言えるくらいの声で言った。

「いないんです。だんなさん、とか。最初から」

 暮れかけた店内の中で、美晴は、真っすぐカケルを見つめたまま、かすかに笑った。それから、手元のカップに視線を落としてこう言った。

「相手は、奥さんのいるひとだったから」

 傾きかけた西日を受けて、首筋あたりで切りそろえられた美晴の髪が、かすかに震えた。昔と変わらない瞳が、かすかに揺れて光って見えた。
 何と言ったらいいか分からず、カケルはただ美晴を見つめた。
 美晴は、ゆっくりと視線をカケルに戻した。そして、張り詰めた空気を砕くように、顔をくしゃっとさせて笑った。

「びっくりしたでしょう」

 声には出さず、うん、とうなずいた。動揺したのか、ぎこちなく、二回ほどうなずいてしまった。
 会っていない十五年の間に、一体どんな出会いと別れがあったのか。控えめだった昔の彼女からは想像もできないような今が、ここにある。

「そんなに、見つめないでください」

 冗談っぽく言ってころころと笑う美晴には、シングルマザーという一般的なイメージからくる悲壮感や疲れは、みじんも感じない。むしろ、しなやかさとたくましさが同居しているような落ち着きがあった。自信がなさそうだった昔より、ずっといい顔をしている。
 対して、自分は一人の女性と結婚して別れて、ただ振り出しに戻っただけ、のような気がした。仕事では多少、積み上げてきたものもあるんだろうけど、人間としてはどうなんだろう。

「コーヒー、おかわりします?」

 ふんわりと笑った美晴につられて、次第に気分がほぐれていく。

「いや、いいよ」

 日は落ちて、辺りは薄青くなってきた。窓から見える雲が、淡い縞模様を作っている。

「ずい分、ドラマチックな人生を送ってきたんだろうな」

「そう、自分がこんな人生を送るなんて、思ってもみなかった」

 時というのは、不思議だ。だんだん、昔に戻っていく。会話をしていくうちに、十五年なんて軽く越えていくのだ。

「今度、全部聞かせてくれよ。ドラマか映画のネタになるかも」

 冗談っぽく言うと、美晴は手でコインを作ってから言った。

「取材料、高いですよ」

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