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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.74 第八章



 カケルは、一人の母親が息子に抱く惜しみない愛情を、今、美晴の涙の中に見た。もしかしたら、それは初めて目にする種類の涙かもしれなかった。そんなにも、お前は子どものことを愛しているんだな。

「本当にありがとう」

 ティッシュで目を押さえたまま、美晴が言った。うん、と小さく答えてから、カケルは、もう二枚ティッシュを引き抜いて美晴に手渡した。もう大丈夫、という言葉とは裏腹に、美晴は、もう一度目を押さえて、それから軽く鼻をかんだ。

「あの子、笑ってたね」

「あぁ」

「すごくいい顔してた」

 カケルがうなずくと、美晴がつけ加えた。
「あの、緑を見て帰って来たときの横顔」

 美晴が、画面にひき寄せられるように、身を乗り出したところだ。出会う前と後では、目に映る世界が、がらっと変わってしまう。自分が吸い寄せられて、ずっと追いかけていきたいもの。そういう世界を手に入れたものだけが目に宿すことができる強い光を、カケルは圭の目の中に見た。それが、彼を、イノセントな世界の中にいる子どもとしてだけでなく、これから世界と向き合いながら何かをやり遂げていくであろう一人の人としての顔に見せた。

「あいつは、世界を手に入れたな」

 そう言ってから、ふと、圭が見せた全く別の表情を思い浮かべる。
 誰にも言えなかった胸の内を、一気に吐き出したときの、あいつの涙。それを思い出すと、のど元が熱くなる。人は、そんなに強くはない。かつての自分も、そうだったように。あの叫びは、子どものときの自分が口にできなかった思いだ。あの涙は、子どものときの自分が流せなかった涙なのだ。

 ぼくは、はぶかれていると思う、とつぶやいた。ぼくなんか、生きていても意味がないんだ、と叫んだ。
 圭の気持ちに思いを巡らせ、静かに曇ってゆく視界に幕を下ろすように、カケルはゆっくりまばたきをした。それから、祈るように言った。

「お前に、ひとつ頼みがある」

 泣き止んだ美晴が、え、とこちらに目を向ける。
「話してやってくれないかな。あいつに。圭に。父親のこと」
 ぴん、と静かに張り詰めた視線が、カケルを見つめた。
「どんな研究をしていて、どんな人だったかってこと」

 美晴の表情が、かすかに揺れる。

「それから」
 カケルは小さく息を吸いこんだ。

「どんな風に、愛したかってこと」

 二人の間の、夜の空気は止まった。そのときカケルは、ぷつり、と音を立てて自分の中のある思いを、自らの手で刈り取った音を聞いた。瞬きもせず、カケルは美晴を見つめた。美晴も、瞬きをしなかった。大きく見開かれた瞳は、妙にきらめいていた。それは、ゆっくりとはなれていくものを見つめる目だった。
 もう、三秒も見つめていたら、苦しくて息ができなくなるところだった。ぎりぎりのところまで、見届けた。カケルは、視線を外して、ぎこちなく、ゆっくり笑った。

「誇りを持ちたがっていると思うんだ。自分が生まれてきたことに。そろそろ、タイムリミットだと思う。それを伝えられるのは、お前だけだから」

 そっと、視線を美晴に戻すと、彼女は目線を下に向けたまま、うん、とうなずいた。
「たぶん、あいつは聞きたくても聞けないんじゃないか、って思ったから」

 お母さんを困らせたくなくて。ぼくは。そこで、言葉をつまらせてしまった圭の小さな肩を思い浮かべる。一人で必死に耐えているその肩を。
 美晴は、黙って唇をかみしめながら、何度も、うん、うん、とうなずいた。そして、手を鼻の下に当てて、少しだけ泣いた。

 これで、いいんだ、と思う。

 彼女の心は、また最愛の息子へと戻っていく。
 これで、いいんだ。この距離で。反芻しながら、機器を片付け始める。まだ、あたたかいノートパソコンのふたを閉じる。淡々と手を動かしながら、しかし、カケルの心には、口にしたのとは全く裏腹な思いが熱い波となって押し寄せる。
 彼女を、守りたい。
 彼女を、愛している。


 

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