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ペニー・レイン Vol.20

  7

 ノックの音でドアを開けると、キムとエドが立っていた。エドは裸のままのサックスを持っている。雪からの光が反射して、ぼくは思わず目を細めた。
「おっす」
 キムは、手を上げると、ずかずかと店に入ってきた。
「おれも持ってくよ」
 キムは、ステージの上のドラムセットから、スネアドラムを外しにかかった。
 雪が降り止んだ日曜日の朝。今日、ぼくらは経営者のノートン氏のところへ向う。店の権利を譲らないように、直接頼みに行くのだ。
 それが、ぼくが昨日の夕方から考えたひとつの答えだった。今、ぼくができること。それが間違っていても、正しくても、どんな小さなことでも、試さないよりは試してみたほうがいい。きっと、〝パパ〟もそうしたにちがいない。
 銀色の街には、あちこちでクリスマスツリーが飾られていた。ぼくらは、雪道を黙って進んだ。何か口にすると、ふとした拍子に弱音やあきらめがもれてしまいそうで、しゃべりたくなかったのだ。ぼくらは、固い決心のまま、その場所へたどりつきたかった。ノートン家への地図は、ママに内緒でマスターが書いてくれた。
「ここだな」
 エドがふっと息をはいた。どこかで見たことがある。
「あっ」
 ぼくは、思わず叫んでしまった。
「何だよ」
 キムがぼくの顔をのぞく。
「いや、この家……」
 そうだ。あの夜、あの子と出会った家だった。二階のふちに、あの子が顔を出した窓が見える。ぼくは、一瞬、真っ暗な気持ちになった。それと同時に、ここへ向うまでの決心がぐらぐらと揺らいでくるのがわかった。
「そんな……」
 肩の力が抜けていく。キムとエドは、さっぱり分からないって顔をしてぼくを見た。
「どうかしたの」
 エドの問いに、ぼくは、いや、何でも、と答えるよりほかなかった。何てことだ。ぼくが敵と構えて立ち向かった家は、天使の家だったのだ。ぼくは、じっとお店を見ていた彼女を思い出した。そして、あの夜、「あなたの店だったの」と言って、うつむいたときの顔を。彼女は、知ってたんだ。自分の父親が、ぼくの店を売ろうとしていることを。だけど、だからといってここで引き下がれない。
 ぼくは、せいいっぱい気持ちを立て直すと、震える指でノートン家のチャイムを鳴らした。
 しばらくして、ドアは開き、中からシューベルトのような眼鏡をかけたノートン氏が現れた。
「こんにちは」
 自然と声がふるえる。ノートン氏は、見知らぬ訪問者に少し驚いた様子だ。
「こんにちは。何か用かな」
 彼はつとめて紳士的に聞いた。
「ディッキー・アンダーソンです。『ディキシー・ジャズ』の」
 ぼくは、軽く頭を下げて言った。そして、後ろの二人に視線をちらりと送って
「こちらはぼくの友人のキムとエドワードです」
と言った。
「ああ、それはどうも」
 ノートン氏は、ぎこちない笑顔を見せ、ぼくらと次々に軽い握手を交わした。
「あの、用件から言うと、お店の件なんですが」
 緊張して、次の言葉が出てこない。ぼくは、つばをごくりと飲みこんだ。後ろで、キムとエドが、ひそかにパワーを送ってくれるのが感じられる。
「お店の権利を、ゆずらないでほしいんです」
 まさか、こんな子どもからその言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。ノートン氏の眼鏡の奥の目が、驚きで光った。ぼくは、じっとノートン氏の目を見る。
「いや、その、そんなことを急に言われるとは」
 ノートン氏は、手で鼻や口の周りをこすった。
「ぼくら、本気です」
 ノートン氏は、ぼくら三人をかわるがわる見た。
「あのお店がなくなると、困るんだ」
 キムが訴えるように言った。
「いつも通ってくれるお客さんもいるの」
 ぼくが言うと、エドが、言葉を選びながら、ゆっくり言った。
「あそこは、客だけでなく、ぼくらの居場所でもあるんです」 
 居場所。いい言葉だと思った。ぼくは、エドの言葉にちょっと感動しながら、ノートン氏に強い視線を投げかけた。
「……わかった、わかった。お店のことは新しい経営者とも相談するよ。でも、権利を売ることは、もう決まってるんだ」
 ノートン氏は、腰に手を当てて、こう言った。
「分かってくれたまえ。これは、大人同士の問題なんだ。君たちの希望を聞いてはいられないんだよ」
 そして、彼はぼくの肩に手を乗せた。
「君たちの気持ちはよく分かった。今日は、わざわざありがとう。ママによろしく伝えてくれ」
 反論するすきもなく、ドアは閉められた。ぼくらは、そこに立ち尽くした。
「……何だよ、あれ」
 三分ほど経って、やっと、キムが口を開いた。
「あれじゃあ、何も話は変わってないじゃん。話し合いもしてくれないなんて」
 ぼくらは、半ば途方にくれたまま、玄関の階段を降りた。
 ぼくは二階を見上げた。雪をかぶった家の屋根が光ってる。二階のカーテンの向こうから、あの子がこっちを見ていた。
 ぼくは、深呼吸した。ひんやりした空気が胸に痛い。
 ぼくは、足元の雪に靴をうずめるようにして、体の重心をしっかり置いた。そして、ゆっくりと、大きな声で、「ブルー・ムーン」を歌い出した。
 ぼくの声は、静かな雪の朝の街路に響いた。空気が澄み切っている。自分の声が、透明に聞こえた。途中から、キムがスネアドラムでリズムを刻み始め、エドのサックスが加わった。一番が終わったところで、エドがアップテンポに間奏を奏でる。キムのスティックが乗ってきた。そして、二番。届いても、届かなくってもいい。ぼくは、思いきりボリュームを上げて歌った。あの夜の、わくわくした気持ちを思い出しながら。
 歌い終わって見上げると、空から銀色のつぶが降ってきた。あとから、あとから降ってきた。よく見ると、それは一ペニーのコインだった。一ペニーのコインの雨だ。
 ぼくらは、ただ、ただ口を開けて、夢みたいにそれを眺めてた。
 コインの雨が止んで、二階の窓を見ると、あの子がおそろしく長い筒の貯金箱を持って立っていた。そして、ぼくと目が合うと、いたずらっぽく口のはしを上げて、にっこり笑った。

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