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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.72 第七章
それから、どういう道で家までたどり着いたのか、あまり覚えていない。
圭の頭の中は、あの楽園で見たトンボたちのことでいっぱいだった。残像は行き交う人々の群れにも交じり、信号の青でさえ、トンボの目のように見えた。たくさんの種類のトンボがいたけれど、あれは一体、何という名前のトンボなんだろう? 頭の中の残像が消えないうちに、一刻も早く家に帰り着いて図鑑で調べたかった。
大またの急ぎ足で、カケルさんがついてくる。何だか、行くときは、いつも圭がついて行くみたいだったのに、帰りは立場が逆になってしまったようで、おかしかった。時々、道をまちがえそうになると、こっちだ、とカケルさんは指さした。見慣れた道に出ると、圭はそのまま走り出した。そして、一気に家の石段を駆け上ると、玄関のドアを開けた。
「ただいま! お母さん‼」
カウンターの向こうでお皿を洗っていたお母さんは、はっと手を止めて、小走りで出てきて、圭の両肩を抱いた。
「おかえり」
そして、にっこり笑ってから、こう言った。
「無事に、誘拐されて帰って来たね」
無事に誘拐されて、なんて、すごく変な言葉なんだけど、それ以外ありえないってくらいぴったりな言葉に思えて、圭は思い切り、うん、とうなずいた。
カケルさんは、軽くお母さんに向かって手を上げると、黙って離れにひきこもってしまった。圭は、それからしばらくの間、二階の部屋で、ずっと昆虫図鑑をめくって過ごした。
あの、空を切って飛んでいたトンボたち。色あせ始めている記憶をたどっていくと、似た姿形のトンボを図鑑の中に見つける。ギンヤンマ、アオイトトンボ、シオカラトンボもいたっけな……。
今まで、細かい説明のところはあまり読まなかったけれど、トンボの目のしくみのところは熟読してしまった。
あの、青くて深くて、静かな目。
無機質なようでいて、その目はほかの生物よりも色を感じる遺伝子をたくさん持っているという。
圭は、思わず図鑑から顔を上げた。
もしかしたら、トンボの目にうつる世界は、ぼくが今見ている世界よりも、もっとずっと色が多くて美しいのかもしれない。
頭の中に、鮮やかな色彩のトンボの王国が広がった。花の色も、緑の色も、ずっと奇抜で、鮮やかな世界。
圭は、ほうっとため息をついた。
ふと、部屋を見回すと、カラーボックスの本棚にある植物図鑑が目についた。何だか、自分を、呼んでいるような気がした。昆虫図鑑に比べたら、今まであまり見なかった植物図鑑。そこだけ、ぽっと、くっきり見えた。圭は、そうっと、その図鑑を引き出した。ページを開けると、みしっと小さな音がした。ぱらぱらとめくってみる。行く道で見た、シダや、青いもみじ。池の周りに生えていた、細いあし。それらは、トンボの目には、どうやってうつっているんだろう。
「圭」
突然、声をかけられて、はっとした。
「ごはんできた、って」
振り向くと、カケルさんがふすまの柱に寄りかかって、腕を組んでいた。 圭と目が合うと、そっとほほえんだ。今の今まで、カケルさんのこともお母さんのことも、その存在さえ、忘れていた。まだ、自分は、旅の中にいたのだ。鮮やかな、虫の世界に。
名を呼ばれて、急に、空腹感を覚えた。
「ずっと、図鑑見てたのか」
カケルさんが、部室に入ってきて、しゃがみこんだ。圭は、うん、とうなずくと、図鑑に目を落とした。そして、ぽつり、と言った。
「夢みたいだった」
カケルさんは、え、というように、圭の顔をのぞきこんだ。
「あの場所」
思い出すだけで、胸がふくらんでいっぱいになる。
「また、連れて行ってくれる?」
ゆっくりと、カケルさんの顔を見上げた。カケルさんは、圭の顔をじっと見つめたあと、大きくにっ、と笑った。
「当たり前だろ」
そして、くしゃくしゃっ、と圭の頭をなでた。
「また、行こう」
それから、目線を図鑑に落としてから、こう言った。
「もう、柵の向こうへ行かなくても済みそうだな」
え、と言いかけてカケルさんを見る。
「きっとお前が行きたいところは、柵のこっちにだってたくさんある。お前は、恵まれているよ。こんなに自然がいっぱいの所に暮らしてるんだから。好きなものに、すぐ会いに行ける」
その言葉は、圭の心に温かい風を吹き込んだ。恵まれている。この、ぼくが。今まで、思ってもみなかったことだった。ぼくには何もない、と思っていたのに。恵まれている。そうか。虫たちや、たくさんの緑。ぼくの周りには、好きなものがちゃんとあるんだ。
カケルさんは、言葉にしなかった圭の心を受け止めたように、かすかにうなずいた。
「さ、行こう」
振り返りかけたカケルさんに、慌てて声をかける。
「カケルさん、ぼく」
思ったより、ずっと強い調子の声に、自分でもびっくりする。
「もう少し、考えてみる。好きなもののこと」
カケルさんは、黙って、うん、とうなずいた。
「それから」
まだ、言いたいことがあった。
「ありがとう。連れて行ってくれて。ぼくを、誘拐してくれて」
カケルさんは、ちょっときょとんとしてから、声をあげて笑った。
「誘拐してくれてありがとう、なんて言われた誘拐犯は多分、おれぐらいだろうな」
夕食時、普段はあまりしゃべらない圭だが、その夜ばかりは、継ぎ目なくしゃべった。みかんを採ったこと、犬にほえられて猛ダッシュしたこと、ウニを採ったこと、こわごわ進んだ洞窟のこと、バーベキューがおいしかったこと、じゃんけんで勝って、二個目のおにぎりをゲットしたこと、そして、虫の王国。お母さんは、黙って、時々うんうん、とうなずきながら聞いてくれた。カケルさんは、その隣で、時々相づちを打ちながら、笑っていた。
ひととおりしゃべり終えて、ごはんもほぼ平らげてしまうと、どっと疲れが押し寄せてきて、手からはしが転げ落ちてしまった。
「とにかく」
しめくくりだ、というように、圭は言った。
「面白いことが、たくさんあった」
それから、ごちそうさま、と言うと、ガクッと腕を机の上に投げ出した。あのトンボたち、すごかったなぁ。まだ、残像が、頭の中できらきら光っている。そのまま、意識が遠のいた。
「圭、圭」
お母さんにゆり起こされて、はっとする。
「もう、お風呂入って寝よ」
一瞬、意識が遠のいただけなのに、声はぼおん、と聞こえて、周りの景色はにじんで見える。
「しゃべり終わった途端に寝落ちか!」
カケルさんがあきれたような感心したような様子で言った。それでも、圭を見守る二人の視線は同じように温かく、同じ高さの目線で、圭を心底安心させた。
あぁ。
圭は、思わず心の中でため息をもらした。
何だか分からないけれど、ぼく、今、とっても幸せだ。
(第七章おわり。Vol.71 にもどって読む) (次は、Vol.73 第八章。 )
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