【連載小説】「青く、きらめく」Vol.13第三章 雲の章
三、雲の章
もう、一時間も海辺で過ごしてしまった。海を目にした瞬間、先ほどまでの落ち込んだ気分は、どこかへ吹き飛んでしまった。海! 海って、すごい!
美晴は、大きく胸に息を吸いこんだ。潮の匂いが、いっぱいに自分の中に広がる。
最初は、寄せては返す波を見ていただけだった。足をつけてみても、いいかな。恐る恐る、浜辺に近づく。少し汚れた白いスニーカーに、波が引き寄せられる。波が引いたあと、浜は一枚の巨大な鏡のようになる。その美しさに、しばし見とれた。思い切って裸足になる。そっと、ぺかぺか光っている濡れた砂の上に足を置く。こんなきれいなところに、自分の足あとをつけていいのか、と少しとまどいながら。でも、その心配は全く無意味で、すぐに波がやってきて、足あとをすくいとって、さらっていってくれる。さらっていくのは足あとだけではなくて、大きい波だと、じっと立っている足の下の砂までさらっていくため、立っているだけなのに、足元が浮いて流されていくような動いているような不思議な感覚に襲われる。これがおもしろくて、なかなかその場を離れられない。
波が去ったあとの浜を見ていると、ぷつぷつと所々小さな穴が開いている。中には、穴からあぶくが出ているものもある。あれは、何だろう。近寄ってみると、他の箇所に、みみずのようなものが潜っていくのを発見する。貝や生き物が息をするための穴なのだ、きっと。美晴は、知らず知らずのうちに、浜を歩き始める。少し向こうに、灯台のある島が見える。あれが、有名な江の島だ。テレビの天気予報で、何度か見たことがある。ああ、海のある街についに来たんだ。美晴は、目的も決めず歩を進める。
今日、バイト先でこてんぱんに叱られた。
注文が覚えられないのだ。一つ、二つならいい。でも、それが三つ以上になると、あやしい。叱られることに慣れていたはずなのに、さすがに働く場面で叱られるとこたえる。弁当箱を出すのを忘れた、とか、聴いている音楽の音がうるさい、とかそういうレベルで叱られるのとは訳がちがう。責任が伴うからだ。
へこむなぁー、と、心の中で美晴はつぶやく。いつもこうだ。覚えが悪い、とか、人の話を聞いていない、とか言われ続けてきた。言われ続けているのに、直らないのだ。鈍いとかトロい、というのもよく言われる。てきぱきとできないのだ。もちろん、運動神経も良くはない。あーあ。こういう自分は、いつまでたっても変わらないんだろうか。
でも、今は。今は、そういうことは、忘れよう。私の前には、開けた海があって、空がある。雲はほとんどなく、遠く緑の山ぎわに、薄くたなびくばかりだ。気持ちが良くって、このままどこまでも歩いて行けそうだ。気がつくと、江の島のずい分近くまで来ていた。
そろそろ夏が近づいて来ている。海開き前の海岸には、カップルや家族連れが思い思いに座り、波とたわむれている。
美晴は、家族で海に来たことがなかった。北海道の内陸という土地に住んでいたこともあるし、実家が農家だ、というのも大きかった。テレビに映し出される海水浴を楽しむ家族は、幼い美晴にとって、あこがれだった。そのあこがれが、とっくに消えた今、やっと海沿いにやって来ることができた。水着を着た、ちっちゃい女の子がぴたぴたと波を追いかけて笑っている。その無垢な笑い声に、思わずこちらも顔がゆるむ。かなわなかった昔の自分が、そこにいる。
美晴は、海岸沿いのコンクリートの階段に腰を下ろして、ぼんやりと海と空を眺めていた。この、一面に広がった青い世界では、意識がどこかへ飛んでいってしまう。
「何してんだ、こんなとこで」
突然、声をかけられて、美晴は我に返った。
そこに、カケルが立っていた。美晴は、夢から醒めたかのように、ぱちぱち、と二回まばたきをした。
「ちょっと海を」
そこまで言うと、二人を舞い上げるかのように、海から強い風が起こった。
「あ」
美晴は、思わず腕で顔をかくす。気づくと、さっきまで、雲がほとんどなかった空には、ぞくぞくと灰色の暗い雲が生まれている。
「さっきまで、すごく晴れていたのに……」
美晴は、カケルに懸命に説明した。
「本当なんです。すごく晴れていて、海がキラキラしてて、ずっと見てたんです。でも今は……まるで同じ日じゃないみたい」
カケルは、ぽかん、とした様子で、美晴を見ている。
あぁ、しまった。変なことを言ってしまったみたい。美晴は、恥ずかしさで頭のてっぺんまで熱くなるのを感じた。そのとき、カケルが海の方を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「そうだな。でも、海の天気は、すぐ変わるから」
頭まで上がってきた熱は、ほっとおなかの辺りまで下がって落ち着いた。美晴はたずねた。
「先輩こそ、どうしてここに」
「バイト先がすぐそこなんだ」
「バイト……」
たたずむ美晴をよそに、カケルは一歩一歩、ゆっくりと海に進む。美晴は、ついていくともなく、後をたどる。
「あの、バイト、楽しいですか?」
「楽しいっていうか……。まぁ、食っていくための仕事だよな」
割り切っているように答えるカケルに、それ以上何も聞けない。
誰かが大人のような返事をするとき、突然ひとりになったようで美晴はいつもうろたえる。みんなが当然、という顔で通りすぎていくのを、ただ茫然と見送るしかないのだ。美晴は、鼻の奥がつん、としてくるのをごまかすように、小さく鼻をすすった。
「何か、あった?」
思いがけない言葉に、小さく息をのむ。
「いや、ちょっと沈んでみえたから」
美晴は、じっと目を見開いて、カケルを見つめた。
「バイト先でちょっと、失敗しちゃって」
驚くほど素直に言葉が出てきた。
カケルは、少し口の片端を上げて笑うと、足元の砂を軽くけった。
「初々しいな。でも」
それから、何か拾うと、ぽん、と美晴の手に乗せた。
「じき慣れるよ」
手を開けると、薄青くて平たいかけらが乗っていた。美晴が何だろう、と首をかしげていると、カケルが美晴の手元をのぞきこんで言う。
「もしかして、初めて見る? シーグラス」
美晴は黙ってうなずく。波に洗われて、角がとれて丸くなったガラス。そのやわらかな感じも、曇り空のようにあいまいに濁った感じも、美晴の手にしっくりなじんだ。そっと握りしめて、ズボンのポケットに入れた。
「江の島も、まだ行ったことない?」
美晴は、それが何を意味するのか深く考えもせずに、黙ってただ首を縦にふった。
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