見出し画像

【連載小説】「緑にゆれる」Vol.25 第四章

   四章


 カフェの南側の大きな窓から、離れへと続くウッドデッキを眺めて、圭が大きなため息をついた。
今晩は、ウッドデッキにレモンが置いてなかったようだ。

「そんなため息ついて」

 美晴は、カフェのテーブルをふきながら笑った。

「だって。あそこの方が集中できるんだもん」

 カケルが越してきて、離れが整理された途端、圭はすっかり離れのとりこになってしまった。暇さえあれば、離れにカケルをたずねて、本を読んだり、ゴロゴロして一緒に音楽を聴いていたりする。
 壁のほとんど四方を埋め尽くされた本や写真集は、背を眺めているだけでも確かに楽しい。自分も、仕事がなかったら、あんな空間に時を忘れて浸ってみたい。

「集中っていっても、勉強するわけじゃないんでしょ。早く宿題しなさい」

 美晴が言うと、圭は口をとがらせて二階へ上がっていった。

「カケルさんは、そんな口うるさいこと言わないのになぁ」

 やたら、圭が離れに行きたがるので、圭とカケルは取り決めをした。
 別に来てもいいんだけど、おれも一人で集中したい時があるからなぁ、そう言ってから腕を組むと、少し考えこんだ。

「何か、いい目印はないかなぁ」
 美晴は、ふふっと笑う。
「昔、うちの実家で豆腐屋さんに寄ってほしいとき、ポストのとこに赤いハンカチ出してた」
「ハンカチ、ねぇ」
「看板、とか」
 圭が、控えめながらも、目をきらっとさせて言う。
「おしゃれじゃないな」

「じゃあ、これ」

 美晴は、キッチンの横のかごに盛ってあったレモンの中から、一つをとり出して、カケルに向かって投げた。
 レモンはきれいな放物線を描いて、カケルの手の内に収まった。まるで、そこがパズルの定位置のように。カケルは、楕円形の果実を手の中でもてあそんでから、つぶやくように言った。

「じゃぁ、来てもいいときは、これをウッドデッキに置いとくよ」

 美晴は、レモン用にと、ヴィンテージもののガラスの器を置いた。ウッドデッキに置かれるレモンを確認することは、圭だけでなく、美晴の日課にもなった。


 早朝から、ランチタイムが終わるまでくるくると働き続けて、ふっと間が空いたとき。自分のために一杯のコーヒーをいれたい、と思ったとき。そっと光射すウッドデッキに目を移す。ころん、と忘れ物のように心もとなくレモンが一つ置いてある。あ、彼にもコーヒーをいれてあげよう、と、ほんの少しだけ、心が浮き立つ。

 ウッドデッキを渡って、離れの引き戸のガラス窓から中をのぞくと、たいてい彼は畳の上に寝転んでいて、かたわらには読みかけの本が転がっている。引き戸を少し開けて、カケルさん、と声をかけると、ゆっくり目を開いて、短い午睡から目を覚ます。ごめんなさい、起こしちゃって、と言うと、たいてい、いや、と言って体を起こす。そして、少ししてからカフェに姿を現す。カウンターの席に座って、コーヒーを受け取ると、まだ半分夢見心地のような様子で、ひと口、飲む。

 客足もまばらで、売り上げはさっぱりだが、光があふれて風もぬるい午後。今日は、何となくお休みモードと思えるような日。レモンが置いてあるのを確認してから、料理の合間に焼いた焼き菓子と共に、離れにコーヒーを届ける。自分の分も、一緒に。

「今日はおやつつきです」

 そう言うと、彼は一瞬、こちらを見て、やった、と言ってまた本や書き物に目を落とす。

「ちょっとだけ、お邪魔しても、いいですか?」

 わざと、歌うようにふしをつけて言う。

「どうぞ」

 彼は顔をあげずに、短く答える。美晴は、ひざを抱えてカケルの本棚に向かい、背表紙を眺める。ただひたすら眺めているときもあるし、手に取ってぱらぱら目を通すこともある。小さな小さな図書館に、二人でいるように、静かだ。ここでは、会話は、あまりしない。

 昔も、こんな時があった気がする。

 本のたくさんある空間で、あるいは、一緒にコーヒーを飲みながら、会話は交わさず、でも、ほのかに彼のことを意識していた時が。

 美晴の中に、その時の感覚がよみがえってきて、ふいに呼吸が浅くなる。何だか落ち着かなくなって、お邪魔しました、と言って、自分のカップを手にそそくさと離れを後にする。

 ほっ、とひとつ、息を吐く。


Vol.24 第三章 へもどる)     (Vol.26 第四章 へとつづく)

読んでくださって、本当にありがとうございます! 感想など、お気軽にコメントください(^^)お待ちしています!