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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.33 第五章
その日も、深夜近くまで事務所にいた。今日も遅い? まだかかる? と里伽からメールが入っていた。そういうメールは、あまりしてこない方だから、珍しいな、と思った。でも、それ以上、深く考えなかった。オリジナルの企画を仕上げることで、頭はいっぱいだった。
作りたいものや考えが頭の中にあると、つい目の前にいる人との現実の生活が抜け落ちてしまうことがある。ねぇ、今の話、聞いてた? 里伽は、よくそう言った。ごめん、何だった? というと、たいてい、ため息まじりに、たいした話じゃないけど、とつぶやくように言った。
午前零時を少し回って家に帰ると、珍しくリビングの電気がついていた。いつもなら、里伽は先に寝ている時間だ。
「寝ててよかったのに」
ひざを抱えてぼんやりとテレビを見つめている後ろ姿に声をかけると、冷ややかな答えが返ってきた。
「今日、何の日か知ってる?」
一瞬、ぽかん、としたが、すぐに思い出して、しまった、と思った。里伽の、誕生日。その答えを言うことすら、恐ろしいことのように思えた。それくらい、里伽の周りには、怒りのオーラが感じられたのだ。
「あー、うん……」
言葉を濁してつっ立っているカケルに向かって、里伽は、振り返りざまに思いっきりクッションを投げつけた。
「あなたは、薄情なのよ」
里伽は、そう言った。
そんなに怒るかな。正直、そのときはあっけにとられた。ただ、ちょっと、忘れていただけなのに。だけ? そうか。女性にとっては、一大イベントなんだろう。フツーに誕生日を祝って、フツーに結婚記念日を祝って。
でもさ。深夜におよぶ勤務が続いて、睡眠不足にイライラしながら、カケルは思った。
大切なのは、記念日とか、お約束のものではなくって、ふいに訪れる奇跡や、偶然出会った感動的な場面みたいなものを共有して、心に刻むことなんじゃないのか?
一緒にクラシックのコンサートに行った帰り、彼女はいつも上機嫌になって弾むような足取りで腕を組んできたのを覚えている。悲しい映画を観たあとは、無口になって、そっとカケルの手を握ってきたことも。
一緒に生活するようになってから、そんなことはめっきりなくなってしまった。
モーツアルト交響曲第四十番。ずっと、聴いてなかった。それは、里伽と最初にデートしたコンサートで聴いた曲だ。きっと寝ちゃうよ、とぼやくカケルに、大丈夫、すごく有名な曲だから、と言って笑った里伽。
「彼女、再婚するって」
美晴の所へ引っ越した日の夜、谷崎が突然そう言った。ウッドデッキで二人になったとき、見計らって教えてくれたのだ。偶然、画廊近くのカフェで里伽に会ったという。
「お前にきちんと報告したいんだけど、迷ってるみたいだった。会社つぶれたこと言ったら、心配してたよ」
そこで谷崎は、カケルの心中を推し量るように、顔を見た。
「連絡してみようかな、って言ってたけど」
もちろん、里伽から連絡などない。別れてから、こちらからも連絡はとっていない。それが本心なのか、谷崎に対する社交辞令なのか分かりかねるが、何かしらのひっかかりを抱えているのだろう。おそらく。
たぶん、この時を過ぎたら、彼女とは二度と会わないんだろうな。まだスマートフォンに残っている連絡先を見つめる。
連絡してみようかな、って言ってたけど。
人づてに聞いた里伽の言葉がよみがえる。今日は、夕方からテレビ局のプロデューサーに会いに行く予定がある。どうしようか。それを言い訳に、たぶん最後になるだろう誘いを送ってみる。
久しぶり。元気?
谷崎から再婚のこと聞いたよ。
今日、東京へ行くんだ。ついでに、少し会わないかな。
おめでとうが言いたいし。
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