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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.31 第五章 波の章

 学内の木立が、冬じたくを始めている。マリは、色づき始めたイチョウの木のてっぺんを見上げた。涙が目の奥に吸いこまれていくように、と願いながら。
「おい、おいってば」
 ふいに声をかけられて立ち止まる。
 そこに、カケルが立っていた。なつかしさと恋しさで、思わずかけ寄って抱きつきたい衝動にかられた。カケルは、二歩、三歩と歩んでマリの前まで来た。
 何と切り出していいのか、言葉を探しているようだった。この間の傷ついた表情、とまではいかないまでも、そこには傷つくのを恐れているような微妙な表情があった。
 マリは、何も言わずに、カケルに一歩、歩みよると、ぎゅっと抱きしめた。抱きついたのではなく、思いきり抱きしめた。この間、そうしてあげられなかったことを埋めるかのように。でも、抱きしめたのと同時に、しゃくりあげてしまったのは自分だった。
「マリ……」
 カケルが、そっと自分の頭に手を置く。その愛しい重みを感じながら、マリはさらに強くカケルを抱きしめた。
「好き」
 自分の声が、二人の間でくぐもって聞こえる。
「カケルが、大好きなの」
「うん……」
 カケルは、マリの頭と肩を抱いている。
「でも、だから苦しい」
 カケルとマリは、そっと離れた。
「カケルをそばで見ているのが、つらくて苦しい」
 何を言い出すか分からない自分を、抑えるな。マリは、勇気をもって一つ、呼吸をした。
「私、私の知らないカケルに嫉妬してしまう。過去にどんな子と、どんな風につき合ったかも、想像して苦しくなる」
 そうなのだ。彼がこれまでにつき合ってきた女性や、彼の周辺にあるもの――バイト先の人間関係や、美晴との言葉にできないような通じ合う何か、すべてに、自分は嫉妬してしまうのだ。マリは、ひと呼吸おいた。
「だから今は少し距離をおきたい」
 カケルは、黙ったままマリを見つめている。
「このままの気持ちじゃ、役はできない。いろんな邪念が出てしまって、きっと、美晴ちゃんみたいに、無心になれない」
 マリは、カケルの広い胸を見つめていた。まばたきもしないで。二人の足元で、かさこそと枯葉が音を立てた。
「自分も、もっとしっかりしたいの。舞台は観に来るから。そのときには、ちゃんとあなたが見られるように。強い心で、二人を見られるように」

 一番、心の奥底でうずまいていた想いは、ついに口に出来なかった。
 本当は、彼は自分のことを愛してないんじゃないか、とどうしても疑ってしまうこと。そして、自分もこの先、彼をもっと深く愛せるのかどうか、自信がないこと。

 ただ、マリは思い出したのだ。今日の二人の演技を見て。初めて、カケルを舞台で観たときの気持ちを。まぎれもなく、純粋な、それは恋の始まりだった。彼は、ほのかに発光して見えた。そんな風に男の子が見えたのは、彼が初めてだった。
 同じような気持ちで、もう一度歩みよれたら。もう一度、からまった糸をほぐして紡ぎ直せたら。力ずくでなく、強く引っ張ったり結んだりするのではなく。ゆるやかな時の流れと気持ちの波に乗せて、再び彼のもとにたどりつけたら。マリは、自分が波間にたゆたう漂流物になったような気がした。きっと行き着くところに流れつくのだろう。
 少し冷たくなった晩秋の風が、マリの耳元をかすめていった。 

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